新世紀パラダイム:「水」の位相―春日井建と高野公彦

2002年12月号 執筆者:大塚寅彦

 『青葦』『水の蔵』『友の書』『白雨』『井泉』という歌集名、そして『水木』『汽水の光』『淡青』『雨月』『水行』『地中銀河』という歌集名を対比的に並べると、嫌でも見えて来るものがある。いずれも(一つ二つを除いて)「水」に関連した歌集名ということである。前者の作家は春日井建、後者の作家は高野公彦。春日井の場合は第三歌集からそれが顕著なのだが、高野の場合はさらに『天泣』『水苑』と続いている。一見接点のないように見えるこの二歌人は、水のメタモルフォーゼに対する親和性の強さという点で深く共通している。では、どのようにそれは歌われているのか。

 男とや沈めとや水圏に棲むものの冷たかりける皮膚の誘へる  建『青葦』
 舟の舳にむしろやさしむ青みどろ水沈けるものに捲かれゆくべし 同
 照りかへるプールにむかひ魂きえし如く人体が落ちてゆくなり 公彦『水木』
 水底の砂ほのぐらくしづまるを冥府のごとく見て浮び出づ  同『汽水の光』

 春日井の歌は「水圏」「水妖」という、水の世界に棲むあやかしとの交感を歌った一連のものであり、その主題は明確である。みずからは生命を生みだすことの出来ない男性という性、その存在苦の象徴としての水妖の世界が描かれており、そこへの誘いはやさしくも「青みどろ」であり、永久に水沈ける存在との同一化である。それは生に対置される死の世界であり、同時に未生以前の羊水の世界への回帰でもある。

 高野の「水の界」もまた、そこへ潜りゆくときの人間は魂の抜け落ちたものであり、死の世界である水底は冥府の静もりを見せている。水の中にあるとき、人はかりそめの死にあるという主題が浮かび上がってくる。

 黒き魚ひそみをりとふこの井戸のつめたき水を夏は汲むかも  公彦『汽水の光』
 とほき世を見おろすごとし水にしづむ桐の青葉に日があたりゐて  同
 死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ  建『青葦』
 あひ呼びて泳げりわれら大洋に五衰のまへの青き四肢もて   同

 水界は生に対する死の界であるだけでなく、時間においても過去の時間が濃密に堆積した空間として存在する。高野の井戸の中の「黒き魚」は遥かな昔から井戸の主としてそこに棲んでいるかのようであり、水に沈んだ桐の木はやはり遠い過去においてそよいでいた青葉が陽に光るさまを見せているのである。

 春日井の大洋はアルカイック・スマイルのようなさざなみを立て、悠久の時の流れの中で命が生まれ死んで行く、その無常の営みをやさしく見守っている。またその大洋に身をまかすとき人はいかなる衰えとも無縁の「青き四肢」であり、ギリシャ神話の若き神々のように相呼び合うのである。

 このように春日井と高野の「水界」のイメージには深く共通するものがあるのだが、同時に相違点も見えて来る。春日井の「水」はシャープな無機質性を感じさせるのだが、高野の「水」は魚や樹木がそのままそこで生きてゆけるような、濃密な有機性をもっている。

 速雨の地を打つなべにししむらのうちなることば雨意をはらみつ  公彦『淡青』
 蟹を買ひもどるゆふぐれ雪雲は雪ふらしけりわが血を清め     同
 母のゐる海の底ひをはるばると暗き奈落へかへりゆく蟹      同

     夕立の土砂降りを見るうちに、肉体の中で呼び覚まされる言葉も「雨意」を孕み、夕ぐれを降る雪は身中の血を清める。こうした外界の自然に深く反応する身体性は女性的であると言えるし、また海底の奈落に還る蟹は自身であると同時に、「暗き奈落」も含めた全体が作者の身体性につながっている感がある。 こうして見ると、高野の「水」は女性性と男性性がはっきり分離されたところのそれではなくて、その境界のおぼろな場所にあるものという感じがする。偶然ではあるが高野の出発点の歌集である『汽水の光』の「汽水」も、海水と淡水の交じり合う場所を意味するものだった。

 料理する指しなやかにいきものの精巣を水に晒してゐたり  建『青葦』
 わが前の視野のかぎりの水の蔵ことばを収めただ鎮もれり  建『水の蔵』
 仄あかき脚に刃物を入れしときけふ幾度目の時雨が過ぎつ  同

 それに対して春日井の水の変化は身体性の混沌よりも、むしろ理知や明晰を志向しているように読める。男性性はあっけなく解体され、料理する指によって精巣は洗い尽くされてしまう。エロスという本来混沌としたものさえも、つきつめれば器官という肉の部品に還元されてしまうという作者の醒めた視点が感じられる一首である。

 湖を「水の蔵」と表現することじたい理知的だが、それはまた「言葉の蔵」でもあるという、作者における水と言葉の不可分の関係が歌われている。『水の蔵』中の「定理」と題された一連では、水棲の生き物をあたかも丹念に解析するように作者は蟹を食べている。

 ガストン・バシュラールは「水と夢」の中で「水は真に実質において死の代わりとなっている。(中略)穏やかな水の中の死はいくつかの母性的特徴を持っている。(中略)ここでは水が誕生と死の両義的イマージュを混合している。水は、無意識的記憶と予見的夢想とに充ちた全体なのだ」と書いている。

 羊水としての水と、その中の胎児としての水棲生物という神話的構図は高野の水界の歌にもあてはまるが、しかし春日井には生きて泳いでいる水棲生物がほとんど出てこない。

 さきにあげた「精巣」の一首もそうだが、「定理」中の「よろひゐる甲羅のうちら柔らかき定理われはつくづくと知る」にはっきりと出ているように、作者は死の後の「自己存在」を解体検証するかのように胎児的存在であったはずの蟹を歌うのである。

 つまり、高野が不透明な生の厚みそのものとして「水」を歌うのに対して、春日井は生や死を超越した位置からの眼差しで「水」とそこに棲むものを歌っているのである。

 女男の性思ひゐるとき日が照りて緑の滝のごとき銀杏よ 公彦『水苑』
 秋水とひびきあひつつ白月はひかりの髄となりてそそげる 建『井泉』

 両歌人とも少し古い歌でここまで論じてきたが、近刊の歌集にもこうした歌を拾うことが出来る。

 緑の滝をなす銀杏の涼しさ、秋の水と白月の呼応の美、それぞれの作者の「水」の位相に合った洗練と完成が感じられる歌である。生そのものにこだわる高野と、いささか死生を超越した感の春日井。水の変貌がこれからこの二歌人にどのように歌われて行くのか、さらに注視してゆきたい気持ちでいる。

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