第15回サイバー歌会 歌評
1 朧なる記憶の沼に積もりゆく仄かに白き山桜花
その言葉を使わずに「静寂」を表現し得た。「記憶の沼」の深みにはまり込むあやうさ、さえ。ただ、この作においては、朧と桜が付き過ぎかと。「山桜」と「花」はダブりでは?(誰鬼)日本人なら誰しもが持ちうる桜に対する情の最大公約数のような歌だと思いました。表現に捻ったところがなく、桜の美しさを純粋に簡潔に詠い上げています。シンプルイズビューティフル。佇まいが美しい。こんなお歌が42首のなかで1番目に登場することがすごいというか、出来すぎです。誰鬼様仰るように、朧と桜が付き過ぎの感が確かにありますが、作者の採られた素直な表現を私は評価したいと思います。
ちなみに、平安神宮の左近の桜の前には、次の本居宣長の歌の碑が立っています。
敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくらばな 本居宣長
数多ある桜の名歌のなかでも私の好きな歌であり、故にこのお歌でも「山桜」「花」と続くのは私は気になりませんでした。むしろ宣長の歌を想起させるような格調高い結句と思いました。(寺川育世)
詠いぶりに古風な雅さがあつて気持ちのよい歌。(やそおとめ)
渡月橋から山を見上げたところに一本の桜が咲いていました。あんな所に一本だけ桜があるんだと思いながら麓のさくらがたくさん咲いている豪華さと共に記憶に残っています。仄かに白き山桜花の表現は言い得て妙です。 (mohyo)
記憶の沼という表現は巧いと思いました。ただ、「朧」「記憶」「積もりゆく(特に 「ゆく」の部分)」「仄」と漠然としたイメージの言葉が並ぶため、幻想的といえばそうかもしれませんが、全体的に漠然とした印象になってしまったところが惜しい気がします。(春畑 茜)
「朧」「仄か」という言葉の重なりから、まずぼんやりしていることが伝わってきて、情景自体はなかなか見えてきませんでした。沼は透明度が低いから、沼(の底)に積もっていく山桜花は「仄か」にしか見えない、ということなのでしょう。「朧」については、なくても「沼」であることで不確かさは表現できているのではないのかなと思います。沼に積もっていく「朧なる記憶」が「仄かに白き山桜花」のようである、というのであれば、「朧」はなくてはならないと思います。が、そう読むのは無理があるでしょうか?(やすまる)
全体を締める為にも、結句は「山桜かな」でよろしいのでは?(誰鬼)
静けさが伝わってきます。「すてき」な読後感ではあります。雰囲気も分かるのですが、「朧なる」と「仄か」で、あまりにも「ぼんやり」としてしまっている気がします。「記憶」そのもの、あるいは「記憶の沼」を朧と言ってしまうと、どんな記憶なのか、どんな沼なのか、読者まかせになってしまうように思います。全体に「夢」を見ているような「ぼんやり」感です。(ほにゃらか)