第15回サイバー歌会 歌評

23 やはらかきはるを抱きし墨堤の桜さくらと君をみてをり

墨堤(ぼくてい)=隅田川堤の別称ですね。具体的な地名は出ているのですが、「やはらかきはるを抱きし」「桜さくらと君をみてをり」だけですと、あまり実感が伝わってこないように思うのです。また、「桜」(主語)が、「さくらと君を」(目的語)「みてをり」(述語)なのか、「墨堤」(主語)が、「桜さくらと」(連用修飾語)「みてをり」(述語)なのか、よく分かりませんです。(ほにゃらか)

「やはらかきはるを抱きし墨堤の桜」は情景で、作中主体が「さくらと君を」みているのだと思いました。春の至福、でありましょう。あ、いや今思ったのですが、「抱きし」では過去に抱いたことを表現していることになりますね。となると読みがちがってきますね。(やすまる)

“君とみてをり”でなく“君をみてをり”で、墨提に咲くあの華やかなさくらのような君。「やわらかきはるを抱きし」が微妙にわけがわからなくなりました。「やわらかきはる」で考えました。はなまつり、曲水の宴、花筏、花の影、都鳥、瀬音、花霞、春疾風、稚児桜、手折り桜、こうあげていくと抱きしより包まれる感じかな、と思ったりしました。勝手に決めてごめんなさい。(mohyo)

「墨堤の桜さくらと君をみてをり」はいろいろに読めて面白い。「桜のような(思慕の対象である)君を見ている」とも読めるし、「桜を見る愛しい『さくら』という名の女」とも読める。また、直接の対象となる人物を見るのではなく花影の中にその人を見ているとも読める。「桜を見るようなふりをして、君を見ている」とも読めるし、「桜と人物を同時に(並列に)見ている」とも読める。いろいろな解釈が可能で面白いので、私は敢て「君」を「桜花」そのものとして読んだ。単純に形象を念想して擬人化したのではなく、春を抱く優しさそのものの淡さのようなものを人格として捉えているのだと読んでみた。仮名の使い方が意識的であったので、「抱きし墨堤の桜さくらと君」の部分の実体感とそれを前後してある仮名の部分のやわらかさが明確になり、だからこそ、こういった読み方も出来るかなと思った。(黒田康之)

墨堤は隅田川堤とのことですが、「墨」という渋い色彩から、若い人の情熱にまかせた恋というよりもしっとり落ち着いた大人の恋といったものを感じました。「桜さくらと」桜を重ねたうたうような表現からは、作者の心のふるえと幸福感が伝わってきます。恋人を見ている作者の視線にやさしさを感じます。ところで、初句の「き」音がどうもきつく聞こえてしまいます。全体の柔らかいトーンを保つためにも「やはらかな」の方がいいのでは、と思うのですが、「やはらかき」にするか「やはらかな」にするかは、作歌において自分もいつも迷うところです。同様に、また時制の点から「抱きし」も気になりました。(寺川育世)

柔和な調べの中に密やかな君への思いを宿す一首。「桜さくら」のリフレインが効いている。「君を」の「を」が手柄。しかし、「さくらと」の「と」は「は」の方がよいのでは?とも思いました。助詞ひとつで場面も意味合いも大きく変化してしまう。(菊池裕)

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