第15回サイバー歌会 歌評

27 花の王驕れる春のふるさとはいさいさよひの存へ果てむ

すみません、評の以前に、「いさいさよひの存へ果てむ」の解説を何方かお願いいたします。 (誰鬼)

「(春の)花の王」とは桜なので、「花の王驕れる春のふるさと」は、桜が満開の故里の事でしょう。「いざよひ」なら陰暦16日のことですが、「いさいさよひ」が少し不明です。「存へ果てむ」は、「長きがやっと終わるだろう」という意味でしょうか?誰かhelp!(るか)

●「その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」 与謝野晶子
(「その子二十櫛にながるる黒髪のおごれる春のうつくしきかな」とも)
●「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」 紀貫之・古今集
27番のお歌を読んで、上のふたつの歌を連想しました。この本歌取りをなさっているのだと思います。紀貫之の歌は特に有名なので解釈の必要はないと思いますが、「人の心は、さあどうか知らないが、ふるさとの花は~~~」という意味ですね。 27番の歌は、紀貫之の歌を逆転させて、ふるさとを「人」の部分に持ってきていると考えました。つまり、「ふるさとはいさ」は、「ふるさと(の桜)は、さあどうだろうか。人は~~~」ということでしょう。「いさよひの」は、「十六夜の月」を連想しますが、ここでは「いさよひ(名詞:ためらうこと)」+「の」所有格・格助詞だと思います。「存へ果てむ」は「ながらへはてむ」と読むようです。「生きながらえて、天命を全うする」という意味だそうです。「桜の名所の(桜満開に咲き誇る)ふるさとは、さあどうだろうか。人はためらいながらの生を全うするだろう。(別解釈:この辺の桜は、ためらいながらも散ってゆくだろう。)」だろうと思います。(ほにゃらか)

まず最初に問題なのは「花の王」。これは牡丹の雅称と辞書にあるから、ちとまずい。「いさいさよいの」の「いさ」は恐らく感嘆詞。軽く受け流す時の応答語で「さあorいやなに」。「いさよひの」はいざよひ(上代では清音)でためらうという動詞。「存へ果てむ」は「存へ果つ』生き長らえて天命を全うするという動詞に助動詞「む」が付いた推量もしくは意志・決意を表す。で、この歌を解釈すると・・・全然分からない。「花の王驕れる春のふるさとにいさいさよひて存へ果てむ」であるならば、少しは分かるのだが歌意から外れるかもしれない。正味あまりはっきりしたことは言えませんね。(倉益敬)

ほにゃらかさま、倉益敬さま、お二人の解説でようやく理解までこぎつけました。やはり初句の「花の王」が「いさ、十六夜の」に繋がらなかったようですね。(誰鬼)

花は女性的な感じがして王といわれて何の花だろうと思いました。さくらばな驕れるのではだめでしょうか。その他解りにくかったのですが皆様のコメントで少し理解できました。わかりやすい言葉をひねって難しい言い方をされると辞書を前にためいき深き春の宵になってしまいました。勝手に読み解く不安と面白さがありました。(mohyo)

簡単なことかもしれませんが、この歌でわからなかったのは「存へ」の読みです。存からは「ある」しか思いつかなくて、送り仮名の「へ」がつくと、こしらへ、拵へ・・だろうかと想像します。ここでひっかかって読めません。(近藤かすみ)

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