第15回サイバー歌会 歌評

29 なんて青い空に爆ぜそうなつぼみたち小学校の桜の庭の

「青い空に爆ぜそうな」のは、校庭の桜の蕾でしょうか、それとも桜の校庭で遊んでいる小学生たちでしょうか。倒置法には疑問があるものの、「青い空に爆ぜそうな」は良い表現だと思います。(るか)

視点が一番何処を見ているのだろうかとおもいました。青空を歌う一首、蕾を歌う一首、小学校の庭を歌う一首、と連作にしないと、この一首だけでは薄っすらと消えそうな写真のようです。つぼみたちは小学校の庭だからいいのかなとも思いますが、校庭のさくらにして青空を丁寧に描写したら春日の長閑さやあかるさがもっと伝わらないかと思いました。爆ぜそうなつぼみを歌うならつぼみの描写をもっと丁寧にして「なんて」や「小学校の桜の庭の」を工夫すれば言葉が埋められないか、と考えました。(mohyo)

私にとっては絶妙な終了の仕方だと思えた。青空の下の桜のつぼみと春休みで静かな校庭は似ていて、やがては満開の花になる桜と、子どもたちのにぎやかな生命感に躍動するだろう4月の校庭の対照が面白かった。この倒置によって終わることで(言葉としての未終了の感覚で終わることで)、何かしらの余韻とともに画像が想像でき、つぼみ一つ一つが子どもたち一人一人であるようにも思えた。「爆」の字の感じも心地よく、ポップコーンのように開く花と駆け出してくる子どもたちのようにも感じられた。ここからは多少無理があるかもしれないのだが、「青い空」とことわっている感じが逆に、紅潮した人肌のような桜色が、すぐにもこの青空を一瞬にして塗り替えてしまうような、そんな景色が見えたりもした。(黒田康之)

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