第15回サイバー歌会 歌評

30 散りて散りて散りてをんなを棄つるごとうすくれなゐの霊(たま)吐くさくら

散りて散りて散りてと字余りで入って、3回散るを繰り返して、散ることををんなを棄てるというスリリングな行為にぶつけた後、霊吐くという消耗感で締め括っている力作ですね。濃厚な香水のような歌だと感じました。爛漫の桜が散るエネルギーには、霊吐くという言葉が似合っていると思います。 (長谷川径子)

「~て~て~て」とするのは「をんなを棄」ててゆく段階を表現しているのかもしれませんが、初句の字余りが効果的だとは思えません。桜の散るさま、女が女を棄て続けるさまを、「うすくれなゐの霊(たま)吐くさくら」とするのは、あまりピンと来ないのです。そんなにも棄ててしまうのならば、「うすくれなゐの霊(たま)」なんて吐かないような気がするのです。棄てたくない、でも棄てなければならない。そういう心のせめぎ合いの中にこそ、「霊(たま)吐くさくら」が活かされるように思います。(ほにゃらか)

さくらがはなびらを散らすことが、うすくれないの霊を吐くことだと、そしてそれが女を棄てるようだということなのでしょうか。「散りて」と「をんなを棄つる」と「霊吐く」の関係がよくわかりません。実感としては、散っても散っても女は棄てられないです。女を棄てるようにうすくれないの霊を吐くのは言葉としての意味はわかりますが、感覚としては理解できません。ただ「うすくれなゐの霊」という言葉は女性性を連想させるかも知れませんね。(やすまる)

どのような状況で作歌されたのかわかりませんので、作品からのみ感じたことを申し述べますことお許し下さい。散りて散りて散りてと不安定ないいまわしから何事ぞと次に目をやるとをんなを棄つるごとというので、花が女性で幹を男性としたのかと思って、次ぎに目をやるとくれなゐの霊吐くさくらで、何か変だと思いました。もう一度読み直して、をんなを棄てることと理解しました。「散りて散りて散りてをんなを棄つるごとうすくれなゐの」は、大衆演劇のセリフのようでなじめませんでした。私の場合、男だからとか女だからと発想したことが無いからだと思います。自分のアイデンティティを棄てるというのが理解できないのです。なお、大衆演劇は嫌いではありません。(mohyo)

わざと、ぞんざいに桜を扱ったところが眼目なのでしょうが、はたして成功しているのかどうか。(村田馨)

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