第15回サイバー歌会 歌評
34 いつしらにさくらちりやみ辻角の石に人形(ひとがた)うきいづる夕
作者は降りしきる桜のなかにいたのですね。身に浴びる桜に酔うように。風がぴたりと止まり散りやんだ桜に、ふと逸らした視線の先へ人形(ひとがた)が浮きだす。ああ、かわたれ時なのだと目を凝らしてる様子が見えます。「辻角の石」がちょっと説明的というか、もたつきますが、全篇に流れる静と動、鮮やかな桜吹雪がしーんとした人形(ひとがた)世界へ。と、怪しい雰囲気をかもし出してます。前半桜吹雪の動の部分がひらがなばかりというのも効果的ですね。気品ある一首です。 (みずき)
降りしきる桜にしろやかにかすんでいた石の模様が花が降り止んだ時にはっきり人の形に見えたという場面なのだと思いました。こんなふうに散文で言うとまったくこのお歌の魅力が削がれてしまうとは思いますが。この人形があたかも石から抜け出し、美しいあやかしとして小路を徘徊するような雰囲気を感じさせられました。辻角というのもこの世のものとこの世ならざるものの交差する場所というイメージを受けますし。また、初句の「いつしらに」がこのお歌の導入としてこのうえなくふさわしく、うまく言えませんがこの言葉以外にはありえないように思いました。(萱野芙蓉)
「さくらちりやみ」は、全部散ってしまった後という意味でしょうか。風がとまって、一瞬さくらの散るのがおさまっている感じでしょうか。「辻角の石」「人形うきいづる」「夕」など、情報量は多いのですが、私にはイメージが伝わってこないです。このお歌も、桜とあの世との繋がりで、石に人形が浮き出たホラーかとも思えます。辻角の石に桜の花びらが貼りついて、それが人形の模様のように見えるという話にも見えますし、桜吹雪の中では見えなかったが、散りやむと、もともとあった石の模様が見えたというようにも見えます。「夕」は目の錯覚が起こりやすいという「逢魔が時」の常套的な流れのようで、要するに何が詠いたかったのか、私には分からないのです。(ほにゃらか)
「しずごころなくはなのちるらむ」のように春日を浴びてさくらの散る中にいた作者。 静だけれど落ち着かない。気が付いたら夕方になり月も出ていたのだろうか。まだ少し太陽が顔を出していたのだろうか辻角の石に人形の影が見えてきた。自分の影だろうかそばにいる人の影だろうか。ふとわれにかえったようなそんな気分かなと思いました。辻角にある石ですが大きな石のような気がします。(mohyo)
初句の「いつしらに」は、いつの間にかという意味でしょうか。短歌ではよく使われる言葉でしょうか。きれいな言葉だと思いながら、この意味を掴みかねています。全体としては、風の中、散っていた桜が散りやんだとき、辻角の石碑のひとがたが浮かび上がったということでしょう。日常に戻った静けさ。(近藤かすみ)
桜のもつ妖しさが感じられました。(瑞紀)