第15回サイバー歌会 歌評

37 根のきはにあまた幼虫ねむらせて悲鳴のごとくさくらひらけり

「桜の根元には死体が埋まっている」…誰が言い始めたのかは知らぬが、単なる耽美式文法だと思っていた。ところが先日、新聞のコラムで岡野弘彦が東京大空襲の夜、満開の桜が立ったまま燃え上がるのを見ていた、という体験談を読んだ。文学的表現をさっ引いても、それでようやく納得がいった。
ただ、「ねむる幼虫」と「悲鳴」の因果関係がもうひとつ、はっきりしないのだが…? (誰鬼)

桜というと死霊などと結びつくイメージが強い中、この歌はもっと現実的なことから桜を擬人化し、「悲鳴」という言葉を使われているのだと思います。桜と言えばアメリカシロヒトリ(毛虫)。毛虫は怖いです。桜だって毛虫が怖いに違いない。わたしが桜の木なら、やがてウゾウゾと出てくるだろう毛虫を想像してしまうと、「やめてくれ~~~」と叫びたくなるだろうと思います。ムンクの叫びのような表情を浮かべる桜の木。さくらの花がひらくのも、「悲鳴のごとく」ですからね。「キヤ~」「ぎょえ~」などと言いながらひらく桜を想像してしまいました。面白い発想だと思います。下の句の「悲鳴のごとくさくらひらけり」も良いと思います。ただ、上の句が気になります。まず「ねむらせて」というところが、しっくりこないです。それと、幼虫は根の際に眠っているのですか?アメリカシロヒトリをネットで調べると、「年2回(一部3回)の発生で卵で越冬し、幼虫は5~7月と8~9月に出現します。」という記述を見つけました。また、我が家の電子辞書の百科事典では「サナギで越冬します」とも書かれていて、ほんとうのところが分かりません。勝手にアメリカシロヒトリの幼虫と決めつけてしまって恐縮ですが、どうも、その辺のところが気になってしまったのです。(ほにゃらか)

さくらは庭木にするものではない、という人がいました。さくらは金気を嫌うので挟みで、切ると樹勢が弱るそうです。手入れが大変な割りに花の時期が短いからだそうです。そこで、調べてみると植物にも天敵がいること知りました。病害虫の駆除…葉を食害するオビカレハ(ウメケムシ)は晩春にクモの巣状のテントを張り、昼間は幼虫がその中にかたまっているので捕殺します。9月ごろ発生するモンクロシャチホコの幼虫は初期にDPE剤などの薬剤を散布して駆除します。 (mohyo)

桜の根の下に卵を産み付ける虫もいないようですが、イメージとしてはすごく面白い広がりを持てる出だしだと感じました。満開から散り際、その後の桜の木の様子まで鮮やかにイメージさせています。それを満開の花の悲鳴に回帰させている点が秀逸です。「桜の木の下に埋まる死体」のイメージを上手に活かされたと思いました。(象)

桜の禍々しさを上手く詠んだ歌だと思う。死体とかではなく、幼虫というのがいい。おそらくは具体的な虫の幼虫ではなく(最初は毛虫か蝉か迷ったけれど)、幼虫という言葉の持つ蠢きそのものと解釈すればいいのではないだろうか。ものの命が躍動する春。命には生き生きとした明朗な部分と蠢きのような暗部が両立しているように思う。その暗部に突き動かされるように、その蠢きに命を吸い取られるがゆえに花は開くと言いたげな感じがして面白いと思った。(黒田康之)

さくらには一種独特の狂気があると言われることがあります。この歌から坂口安吾の「櫻の森の満開の下」のストーリーを思い起こしました。坂口はさくらの下はなぜか怖いものと書き出しています。作者もそんな発想で読まれたのでは?満開のさくらの下に行くとなぜか美女も鬼婆と化した怖い世界。なのにさくらは雪のようにはらはらとその上に散り積もるのです。そこには孤独と言う言葉が残されました。そこで、幼虫と悲鳴のつながりが今一、分かりづらいのでこうしたらいかがでしょう。
根のきわにあまた「孤独」をねむらせて悲鳴のごとくさくらひらけり
(岡崎ウッチー)

古今、桜は狂気のメタファーとて詠われてきましたが、上句の詠みが面白く、擬人化された桜の叫びに実在感を与えています。無論、これは心象風景、即ち観念的な描写なのです。(菊池裕)

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