第15回サイバー歌会 歌評

6 かたちよく盛られし飯粒(いひぼ)妖変し桜はなびら仏間をおほふ

仏前に供えられたご飯が花びらに変容する幻想でしょうか。オリジナルな連想のようには思うのですが、どうも、私にはぴんと来ないんですね。花びらと飯粒の形はにているといえば似ているのだけれど、なるほどと納得できる連想としては受け止められませんでした。(村本希理子)

桜のはなびらが仏間に入ってきたようすを、「仏様の不思議な力によって、ご飯粒が桜のはなびらに妖変した」と喩えているのだと思います。亡くなられた家族・ご先祖さまに、時には帰ってきてほしいという想いがなせる錯覚かもしれません。人の心のなかにある「静かな願望」とでも言いましょうか、それがよく表現されていると思いました。ただ、「妖変」という単語は、微妙に苦しいかもしれません。(ほにゃらか)

「飯粒」がさくらに妖変と言う表現よいと思いました。桜花の重なりを下から見ているとくっきり線のような縁芯の意外に大きいことでスイカの種がぎっしり並んでいるような気分になることがあります。飯粒はなるほどでした。(mohyo)

桜の花には妖しさがありますね。なので、何かが妖変して桜のはなびらになって部屋をおおう、というのはありそうな気がします。その何かが「飯粒」である必然性がどこにあるのかがよくわかりません。飯粒がはなびらになるというのは、意表外で面白いです。(やすまる)

以下のように桜は上から見るより見上げた方が良さそうですね。飯粒の感じが出ている写真です。(mohyo)
http://www.mot.if.tv/linux/img/sakura31.html

mohyoさん経由で撮影者からのコメントも来ています(編集部)
「 歌の評をやりとりしているのをはじめて見ましたが、なかなかおもしろいやりとりですね。たしかに普通の連想では飯粒と桜のはなびらは結びつかないと思います。
距離感の変化が伝わりにくいのでしょうか。上から見た桜をさらに遠くから見れば仏前に供えられたご飯にも見えますが、その連想から一気にズームインしてその桜の中に包まれてしまうような心象風景は共有しにくいかもしれないです。
もっとも全く別のことを表現している可能性も高いですが。この歌の作者が連想と視点の移動を持ち味とするタイプであれば私のような解釈も成り立ちそうです。
子供の頃好きだった遊びがあります。近くの丘の上にある神社の前の大木に抱きついて、中の水の流れを想像し、その流れと一緒に心が上昇していき、木の頂上から眺めた景色を思い描きます。やっているうちに木がどんどん高くなって、より高いところから眺められるようになっていくのがおもしろく、熱中したような記憶があります。
いま思うと、手に棒を持って、ナイフで雑木の枝を切りながら、山を荒らして回っている子供が、そんな奇妙な遊びをしているなんて想像もできないですね。
歌や詩にも時々触れるべきですね。はるか向こうに忘れ去っていたものを突然思い出すことがあります。」

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