第15回サイバー歌会 歌評
8 心電図乱れし洞を花房の海ひたひたと満たす静けさ
すっと一本通った気品を感じました。洞=心電図の暗い部分または病巣、花房=心房と読みましたが、同時に、海へひらく洞窟とその入り口に立つ桜木を思い浮かべました。体内の奥に満ちる海、その生命のみなもとへと作者の意識は遡っているのでしょう。暗い海辺に咲く桜花の明るさは、命のあかりを表しているかのようです。心電図の乱れの奥に、作者は、命の崇高さを見出だしているのだと思います。(寺川育世)病院で検査結果を聞いて家路につく作中主体。結果はそれほど良いものではなく、大きくため息をつきながらの道すがら、満開に咲き誇る桜並木の下を通ったのだろう。大きく吸った息はもちろん肺に吸い込まれるのだけれど、作中主体は「洞」すなわち心臓を桜の香、いや桜の花房そのものが満たすような感覚に襲われる。最後の「静けさ」はうまくまとめ過ぎというか、やや言い過ぎの感がある。あと、「心電図乱れし」は、「心電図乱しし」のほうが適切だったか。(伊波虎英)
「心電図乱れし洞」、「花房の海」、良く考えたら心臓ですね。そして心臓はよくハートマークでしめします。桜花びらもハートでした。なるほどと思いました。桜もみだれ散る感じがあります。椿も辛夷も散る時の花びらはぶざまですし椿並木では一杯花が落ちていておどろおどろしい感じがあります。桜は水溜りに散ってもそこを清静な空間にしてしまいます。(mohyo)
「心電図」と「洞」で、心臓のペースメーカーである洞結節を連想しました。が、それでは歌がうまく理解できないので、洞は心臓自体ととらえるべきなのでしょう。心臓を花房が満たしている様子は美しいですが、苦しくもあります。本来あるべきものではないものに満たされた心臓はその機能を果たすことができません。(やすまる)
さくら満開の海に身を置き、心電図に翳りのみえた一抹の不安と、検査で知らされた乱れた内臓の状態を静かに受け止める有様がオノマトペにより、ひたひたと伝わってきます。結句の静けさにより、不安にゆれる心情が助長されて余韻をおぼえます。(上村霞)
心電図という言葉から、無機的なものを感じましたが、その後、暖かいものがひたひたと満ちてくるようです。病気?の不安に馴染もうとしている作者でしょうか。(近藤かすみ)
洞は病巣と考えるのが妥当かと思います。それを前提に、内臓の病巣を花に見たてた歌を考えると、まっさきに岡井隆の
肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は
が思い浮かびます。比較するわけでもないですが、作者の立ち位置の差、時代の差をつい考えてしまいました。(村田馨)
私も一年ほど前に、心臓発作の連作で
蕊嵐とほり抜ければ心臓に十一枚の桜の花弁
という歌を詠みました。8番のお歌も心臓と桜を取り合わせているので非常に驚きました。心電図の擾乱と心房の静謐。とても美しい歌だと思います。(るか)
この「洞」の読み取りはいろいろ出来るけれど、私は「空虚な暗部」とそのままに読んだ。他の人の歌評を読むと、心臓とハートマークの関係などは私は気がつきもしなかったので驚いたのだが、第一印象のままに感じたことを書くと、体調の乱れから自身の肉体を空虚な暗部と捉えて、その朦朧とした空虚な暗部に対する自身の生への願望とそれとは別に、自分の中に自然に存在する血潮のような生命力が無自覚にあって、その微かな接点から生み出された安堵、何かしらの確信を持って朽ちないという現実感が静かに淡々と満ちてくるといった感じを持った。単純に生への希望でもなく、願望や祈りではない何かがあって、それはまさしく詠み手にとって、散る桜の花の、その色や風に舞う姿にも似た命の感覚なのだろうと思って読んだ。(黒田康之)
自分のコメントへの付記です。「命の崇高さを見出だしている」と書きましたが、命の崇高さ、とは単純に「一人の命は地球よりも重い」といったようなことではなく、明らかな病状を目の前にして初めて作者は、いま自分が確かに生きていることに対して何か神秘的な気持ちを持ったのではないかと思うのです。自分も含めてあらゆる生を送り出した何者かに対し「畏れ」といった感情を持っているのではないかと。そして、この先病状が悪化してどのような結果が待ち受けていようともすべて受容しようと考えている。・・・うまく表現できないしずいぶん突飛な解釈かもしれませんが、詠い収めに至る静かな美しさから、そのように思いました。(寺川育世)
病んだ心臓を花が満たしていくというイメージがあざやかです。花房の重たさとひたひたというオノマトペが適切かちょっと迷います。(服部文子)
心電図の乱れ(感情の隙間?)という景の面白さがまずあります。次に、花房の海というむせ返るような桜のうつくしさ、こわさが伝わってくるという時系列を感じさせる歌だと思いました。(はるのくるみ)