第15回サイバー歌会 歌評
9 ああああと桜は叫ぶあちらからこちらの僕を呼んでゐるとき
37番の作品にも書いたが、どうにも「桜」という花には死霊が取り憑き易いとみえる。「あちら/こちら」が単に「彼岸/此岸」なのか、或いは「狂気/正気」なのかは、量りかねるが、「僕」が「僕」を呼ぶ(裡なる)声に桜が呼応する。それは多分、乱舞する花吹雪ではなく、見渡す枝一面にびっしり張り付いた満開の花。叫び声とはおおかた無縁の、静寂に満ちた光景に亀裂を入れる「ああああ」 …この四字以外、なかったのかなぁ?、とつくづく思う。(誰鬼)毎年見ているから何の不思議も感じないのですが、あの木の色から花の色は想像も出来ません。重なり合って咲かれていると、ああああと言う感じはよくわかります。気のせいかもしれませんが、今年の桜は去年より威勢がよくない気がします。皆さまはどう感じられましたか(千鳥が淵3/29、上野4/1での感想)。「僕を呼んでゐるとき」から、(作中主体は)自意識がまだ強い若者のような気がしました。(mohyo)
漠然とした「桜の叫び」のイメージを、まさに裏付けるようなコラムを読んだ。「七つ釦は桜に錨」の軍歌にもあるように、海軍と桜とは縁が深いのだそうだ。その旧日本海軍の最期、戦艦大和の生き残りの人々の「あまりにも苛烈な桜の記憶」は、単なる「西行的安穏な死生観のイメージ」しか持たぬ私には想像を絶する衝撃であった。もしかすると、作中の「僕」は『男たちの大和』で出撃したであろう過去の「僕」から呼ばれていたのかも知れない。。。そう仮定した途端、「ああああ」が 腑に落ちた。・・・もちろん、勝手な深読みかも知れないが。(誰鬼)
あちらの桜が叫ぶ「ああああ」は、誰かに向けたものではなく桜の内なるものの表出ではないのかと思います。それを、自分を呼んでいると受け取る「僕」は、こちらにいながらもこころはあちらに行きかけているのでは、と思いました。(やすまる)
「あちらからこちら」と書かれると、彼岸から此岸を想像します。桜と海軍のつながりが書かれていましたが、桜と海軍から連想するのは人間爆弾「桜花」。作意とは異なるでしょうが、特攻で敵艦に体当たりする間際の若者の絶叫と重なりました。(村田馨)