2011年10月1日(長谷川と茂古)

秋分を過ぎて、過ごしやすくなった。風も心地よい。収穫の秋、芸術の秋のスタートである。さて、結社誌9月号から。

ブンガワン・ソロわれも小さき声にて唄ふ子の住みてゐる国の歌なれ 稲葉京子

海外勤務のため、出発した子を思う一連の一首。「ブンガワン・ソロ」は、インドネシア(ジャワ島)の古謡。「聖なる河よ わが心の母 祈りのうたのせ 流れ絶えず」という歌詞と、母親の愛情がどこかリンクしているようだ。

間違へても間違へなくてもアルゴリズム体操こどもといふも孤独なるらむ 大沢優子

とつぜんに娘といふがあらはれて父とはじめる家族ゲーム 同

「間違へても間違へなくても」と視覚的な言葉のアルゴリズム体操となっているところに技が光る。テレビを相手に体操をする「こども」の姿が浮かぶ。二首目、「家族ゲーム」で思い出すのは、松田優作が家庭教師を演じた映画である。横一列に並んだ食事シーンが異様であった。大沢さんの作品は、日常のレールを順調に走っていたはずが、いつのまにか現実の境界から出てしまった世界へ到着――という面白さがある。掲出の歌が現実のことなら、事件であろう。上句は父側の意識と考えれば氷解してしまうのだが、そういう解釈は野暮かもしれない。

わたしの血吸ひたる針を揺らしつつ蠅殺してとナースは呼ばふ 伊藤京子

皹や欠け不揃いありて捨てる皿捨てる理由を皿に告げつつ 長谷川径子

大げさなわれが生み出す海がありその海にひとり漂っている 中畑智江

命を大事にするはずのナースが、一線を越えた台詞を放つ。上句によって蠅を敵視している様子もわかる。時折、処分しないと増え続ける食器。「捨てる」という行為に気が咎め、申し訳ない気持ちを結句に表現している。「大げさなわれが生み出す海」というのが面白い。

「海」は「膿み」のようでもあって、「大げさなわれ」とバランスをとる精神作用の働きかもしれない。

さて、伊藤さん、長谷川径子さん、中畑さんの三人は、「短歌研究」10月号で発表された評論賞の最終選考を通過されている。なんとも頼もしい限りである。

続いて、その「短歌研究」10月号より。

かなしみは年ごとに淡く透きとほり秋立つころの風の感触 尾崎左永子

読むだけで、ひんやりとした感覚が生じる。「かなしみ」は消えず、結晶化してゆくようだ。

薬瓶に封ぜられたる玉虫の小さき虹が掌に立つ 高橋啓介

「座右の一冊」として、澁澤龍彦の『唐草物語』を挙げている。結句によって、いかに玉虫のその模様を好んでいるかがわかる。掌中でその薬瓶を転がしたりして、愛玩する感じがまさにシブサワ的だ。

歌評(月2回更新)

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