2015年7月1日(吉田 光子)
「みなさんは、戦争に行かなくていいんです。日本はもう戦争をしないと、ちゃんと憲法に書いてあります。」小学生の私たちに、T先生は、ゆっくりと話してくださった。どのような流れでお話をされたのか、あるいは、戦争で身近な人をなくされたのだったかどうか、記憶はおぼろだ。でも、とても大切なお話なのだということは当時の私にも分かった。長身を傾けながら静かに語りかけられた先生の言葉は平和への確信に満ちていた…と思う。その憲法九条を蝕むかのような安保法案の成立がはかられて、今、日本の立憲主義が揺らいでいるように感じられる。それぞれに主義主張はあるだろうが、性急に持論を押し通すのではなく中身のある議論を丁寧に重ねることが、幸せな明日を子供たちへ自信を持って手渡すためにも必要な気がする。
では、心を落ち着けて結社誌「短歌」六月号から
おぼろなる四月の空が目に沁みる叶わなかった約束ひとつ 太田 典子
辛いなら忘れていいよ朝空に溶けゆきそうな淡い三日月 同
上質のリリシズムをまとった歌が並ぶ。振り返ればきっと誰の胸にもあるであろう「叶わなかった約束」。それは大切な人とのものであったかもしれないし、自分の胸にひそかに刻んだものであったかもしれない。それをそっと見つめる時間は、決して意味のない時間ではないはず。人の心の柔らかなクッションとなってくれるように思う。次いで作者は辛いなら忘れたっていいよとつぶやくように歌っている。三日月は日没近くに西の空に低く見えて、しばらくすると沈んでしまうので、朝の空に見えているのは27日前後の月、あるいは、下弦の月のほっそりバージョンかもしれない。ちょうど、三日月を反転させたようなかたちをしているので、作者はあえて「三日月」と呼んだのだと思われる。忘れていいと言ってはみたものの、たぶん忘れることはできないであろうとの気持が、反転させた月の表現に隠されているのではなかろうか。
八十四の父は来ませり雨の降る台湾の夜は寒いなといいて 三宅 節子
九份の坂を付き来る赤犬の父を見上げる賢げななさま 同
どちらの歌からも情景が鮮やかに立ち上がってくる。九份は台北北部にある山間の町。かつては金塊発掘で栄えたがその後閉山。しかし、映画「非情城市」の舞台となって注目を浴び、人気観光地となったそうだ。レトロな町並みが続く坂道や石段は、観光パンフレットにもよく取り上げられている。作者が父を気遣う気持、そして、父が娘を思う気持がしみじみと伝わってくる歌である。
次に「短歌研究」七月号から。
唱えよパレオパラドキシア 星を招く呪文に似たる古代獣の名を 井辻 朱美
片手だけで豆腐をすくうすずしさにピーターパンの乳歯が風噛む 同
海も空も明晰で美しい沖縄の島々を訪れての歌であろうか。古代獣パレオパラドキシア、確かに呪文のようでもある。唱えれば、美しい星の瞬きに出遭えそうだ。パレオパラドキシアはかばに似ているらしいが、沖縄の水牛と少しばかり雰囲気は似通っている気がしないでもない。また、島豆腐はほどよい弾力があるので、片手で崩さずに掬えるのだろう。作者は永遠の少年の象徴であるピーターパンとなって、沖縄の涼やかな風に吹かれているのだろうか。乳歯の語が少年性を強めるのに効果的だ。
タツハル! とときをり言つて言ふたびになぜかくしやくしや顔の吾子なり 大松 達知
カミナリが もう怖くないこのごろの娘二歳よつまらないなあ 同
娘への手放しの愛情表現に、こちらの胸にも温かいものが満ちあふれてくる。宝物のような時間が眩しい。
また、「短歌研究」七月号には「短歌の時評を考える」という特集が組まれていて。各結社の取り組みが紹介されており興味深い。中部短歌からは菊池裕氏が稿を寄せられ、短歌(界)の捉え方や自身の拠ってたつ視点など、鋭い論の展開がなされている。そこで、改めて「短歌」七月号の菊池氏による時評を読むと、角川「短歌」四月号の特集《次代を担う20代歌人の歌》に端を発した(「わかる」とは何か、「読む」とは何か)論争に関して、明快な解釈がなされている。6月15日の当欄で長谷川と茂古氏が述べられているように、多くの方に読んでいただきたいものである。