2014年3月1・15日(長谷川と茂古)

年度末、本の整理をしていたら、「短歌往来」の2012年12月号が出てきた。
ちょっとめくってみたら、巻頭作品に藤井常世さんの「草の名」一連が掲載されている。

さういへば私は薊が好きだつた <こころの花園>に咲く花として
薊痛し烏怖しと人はいへど、人の厭へば私の好む
草の名をひとつ覚えてまた忘れてもよしこの世にあれば

三首目は一連最後の歌。このあと1年もしないうちに亡くなられるとは思いもしない。「薊が好き」、人の厭ふものが好みであるというところに人柄が表れる。また、同誌には小高賢さんの「死に方用意」の連作もある。この題名には、驚いてしまった。

役立たずの雑草として抜かれたる名のある日々を知らず逝くもの
六十歳(ろくじゅう)をすぎるころより錆色に声は降りくる「死に方用意」
いつよりかおぼろに見ゆる器量とも人格だともいえぬ境目
十分に完熟したる老人へただしく跳べる過ごし方とは

ユーモアのある老いの歌、老いの力について書かれた著作を近年出版され、お元気で長生きされるものと、根拠もなく思っていた。「完熟したる老人へただしく」跳べるよう、考える。筆者なら、完熟しなくてもいいんじゃないかと思うが、おそらく、六十を過ぎてからみえてくるものがあるのかもしれない。まだまだ未熟者なんだなと感じた。

さて、結社誌は三月号から。

没、没とスマホ族たち沈みゐてアザラシのわれは顔挙ぐ   大沢 優子

電車に乗ったときの様子。大抵の人は携帯をいじっていて、顔は下を向いている。「没」は死ぬこと、もしくは採用されない原稿ともとれて面白い。曲芸をするアザラシのように首を伸ばしているような作者がコミカルに描かれている。

自己流の体操手足動かして起き出づ厨にぽつんと一人    林 すみ子

結句の「ぽつんと」がちょっと気になるが、朝、まずは「自己流の体操」をして、われとわが身に気合を入れる。一連のなかには、「夫よりも一年早く逝きし娘の一月命日、北陸は雪」という歌もあるから、ご主人と娘さんを亡くされ、一人暮らしなのかもしれない。過去には、家族みんなの食事を準備していた厨。その記憶に包まれて、一人。

ふはふはの好きとふ気持ちはあたたかいけれどもふつと消えてしまふよ  紀水 章生

「ふ」の持つ感じをよく生かした作品。さらりとした甘さも心地よく、綿菓子のように味わえる。

〈何事も馬く行く〉とて掲げたる画賛の駒の駈け出さむかな  和田 悦子

整った作品。結句の表現は伝統的にあるが、韻律の美しい作品には、なにか力が加わるようで、通り過ぎるわけにはいかない。

農耕も日銭の稼ぎも馬の背に委ねし暮らしに人ら足らえり   纐纈 典子

馬屋口に馬草の青き香を満たせ盆の休みを仕事解かれぬ      同

「馬とのくらし」と題した一連。かつて農耕には馬や牛をつかった。一首目の結句「人ら足らえり」という言葉がずん、と胸に響く。「足る」ことを知る心と、

速さを競う技術革新のなかで、人間は揺れる。いや、踊らされているのかもしれない。二首目、お盆休みと馬草の青い香がセットになった記憶。馬に対する優しい気持ちが自然とあらわれてくる。

歌評(月2回更新)

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