2013年4月15日(川野睦弘)
中部「短歌」二〇一三年四月号より。紀水章生(きみしょうせい)「オペラグラス」八首。
手のひらのオペラグラスに見えてゐる遠い世界をあなたは生きる
動くことを拒んでゐるやう雪の舞ふ川面に一歩足でたつ鷺
指だけが冷たいわけぢやなかつたさ掘りごたつのある居酒屋へ入る
けふもまたあなたは笑ひころげてるさうして地平は平らになつた
意思を持つおゆびとおゆびがからまつて部屋にゐたときより温かい
もう一度くりかへすのかさびしさに囲ひこまれて回りゐる独楽
夕焼けは暖色系の絨緞のやうだ仰向けにねころんでゐる
ガラス張りのテラスは風を通さない遠き港を丘から眺む
紀水さんの歌は、正直に言えばぼくにはとても難しい。歌会の席で批評者として指名されるのが怖いほどなのだ。だからこそ、あえてここで一連まるごと批評したい。逃げてはいけない。なげたらアカン。
一首目。<あなた>を異性=女性の恋人と仮定しておく。それにしても何と遠い存在なのだろう。<遠い世界>と言われると、幽明境を異にする――亡くなってこの世に居ないのかともおもわれるが、そうでは無く、自分のそばに居ながら、ふれがたい、どこか遠くに居るような存在感をただよわせる不思議なひとなのだ。同年三月号「あやとりの綾」十首一連をみると、こんな歌がある。
紅葉と樹氷の出逢ふけふひと日あなたはあなたの空に浮かんで
まだ暗い朝の窓辺に立つてゐる壊れた珠をかかへたあなた
<樹氷>、<壊れた珠>といった、こわれやすい、傷ついたものを伴って<あなた>が存在する。四月号の一連も、そういうつもりでやさしく見守るように読み解けばいいのかもしれない。<わたし>の手のひらにのる小さなオペラグラスが捉える<遠い世界>を、読者のぼくも覗かせてもらおう。
二首目。冬の鷺を描いた嘱目詠とも取れるが<動くことを拒んでゐる>というフレーズにはふたりの関係性も含まれるようだ。
三首目。一連の流れから言えば、指だけで無く心も冷たかった、となりそうだが、下句のおかげで、手も足も冷たかったので掘りごたつが恋しくなりました的に、理に落ちてしまった。
四首目。三月号の<あなた>とは違って、ここでは明朗な一面を見せている。<けふもまた>とあるから、その明るさが<あなた>の本来のすがたなのだろう。下句の解釈は、トラブルも無く、四海波しずかに、といったところが妥当か。
五首目。<おゆび>は指の古語であり、けっしてお茶椀お箸の類の<お指>では無いことを念のためことわっておく。上句は<あなた>と<わたし>が恋人どうしであることを示すフレーズだが<おゆびとおゆびがからまつて>は、どうしても島倉千代子の「恋しているんだもン」という歌謡曲を連想してしまう。<壊れた珠をかかへたあなた>にふさわしい、より繊細なフレーズが望ましい。
六首目。五首目のすぐあとにこの歌だ。おゆびとおゆびをからませている場合では無い。<あなた>もしくは<わたし>の葛藤と孤独のすがたか。回る独楽自体にでは無く、独楽の周囲に<さびしさ>を見ている点がいい。
七首目。採るならこの一首だ。上句の、夕焼けの比喩としての絨緞がそのまま下句に係ってくる。<わたし>が夕焼けを眺める下句の簡潔さも効いている。
八首目。七首目と同じシチュエーションだろうか。下句は口語でもよかったのでは。いや、それよりも一連一首目に還ってゆくように<遠い世界をわたしに見せる>あるいは<遠い世界がここから見える>とした方がいいとおもう。
最後に「歌壇」二〇一三年四月号から。
鉢植えで生まれていつしか人になり鉢植えを割って泣くまでが予定
屈折して屈折していびつで綺麗な円になったら輪投げをしようと言うのだろうね
木下竣介「ゼロ桁のパス」七首。訓詁学的に解釈するより、歌のインパクトのままに感受するのがベストか。朗詠パフォーマンスの絶叫に合いそう(特に<輪投げ>の一首)。
拍手するてとてと握手するてとてとさいごにかおをあらうてとてと
鈴木博太「ランドスケープ」七首。<てとてと=手と手と>が楽音のテトテトに通じて面白い。そしてそれが手と手とのふれあいのむなしさを明るく掬い取る。