2012年5月15日(長谷川と茂古)

五月――。春日井建先生が現世をクリアされ、次のステージへと進まれてはや八年が経つ。
結社誌5月号は、『春日井建を詠む』特集。特別寄稿として、春日井先生の令妹、森久仁子さんの〈「雪とラジウム」より〉が掲載されている。そういえば、3月に刊行されたコロナ・ブックス(平凡社)の『作家の旅』では、寺山修司、吉田健一、澁澤龍彦ら15人のなかに建先生も収録されている。ご覧になっていない方は、是非。

さて、結社誌5月号より。

五線紙の五線は永久(とは)に交はらずみどりの風の旋律(しらべ)待ちをり 大塚 寅彦

人出づるたびに一つの非在入る回転ドアを見をり午後五時   同

マニキュアを暗号とせる組織などありや五色に爪塗りしひと   同

五首連作の題は、ずばり「五」。全てに「五」が入る。五線は永久に交わることがない、と改めて気付かされる。音符によってつながっていく五線は、「みどりの風の旋律(しらべ)待ちをり」と詠うことで、ふわっと風がおこるようだ。上句の持つ負のイメージが、下句で反転する。二首目、回転ドアから人が出ていった後、「非在入る」という。立夏を過ぎた今では、午後5時はまだ明るいが、4月くらいなら所謂逢う魔が時かもしれない。ドアを見ているはずなのだが、「非在」を見ているような感覚が面白い。三首目、マニキュアが一色で艶やかに塗られていた時代は、何だったのかと思わせるほど、爪は表現の場となった。五色の爪の持ち主は一体いかなる人か、という発想からかもしれない。

菅公の歌に応うるか梅の花梢の先より咲きのぼり来ぬ 芳山 つゆ

「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」。人形浄瑠璃の演目としても人気のある道真。大正から昭和初期では、文部省唱歌の「菅公」があるし、昭和世代なら、「カンコー学生服」。58年という生涯の後1000年を超えてなお、衰えない人気ぶりである。うその証言により左遷させられた無念、というのが日本の土壌にあっているのかもしれない。梅の花が咲きはじめる。同じように梅の花を愛でた道真の思いが、時空を超えて作者と並ぶようである。

矢の如し四百余年の藍の道ザック背負える若者歩む 山田 峯夫

四百余年というと、秀吉の頃からの道になろうか。昔からの道を、現代の若者が歩くのを見ている。作者ではなく、若者をおいたところが面白い。この先も、残ってほしいなあという思いがじわりと伝わる。初句の「矢の如し」は、いささか性急な気もする。

続いて総合誌は、「歌壇」5月号より。

十万年のちの地球にオンカロの冥き眼窩を誰か覗くや 桜木 由香

サフランのスープのような夕あかね片照る街の広場に立ちぬ  同

「緋色の街を」七首連作。「オンカロ」は、建築中の、フィンランドの放射性廃棄物の保管施設である。フィンランド内の原発から出る放射性廃棄物を22世紀まで入れたのち、厳重に封鎖して十万年間誰も立ち入れないようにするようだ。999年後、日本には15歳未満の子どもがゼロになるという計算値が出たが、十万年後、オンカロを覗くのは一体誰なのだろうか。「冥き眼窩」と「覗く」の対立が良い。二首目、オレンジ色に染まる夕陽は、冬に多いらしい。「サフランのスープ」と表現された夕あかね。この日、この唯一の時間を惜しみつつ、広場にいるような気になる。

睨みつけ叩き揶揄して生きた身の洞にのみこむ真冬の青菜 髙辻 郷子

福耳にあらず部品も自信なし藻屑の老いを凍天が踏む  同

いやあ、面白い。青菜を食べる事が、こんな風に表現されるのかと驚いた。「身の洞」は相当鍛錬なさっているようだが、「冬の青菜」も負けてはいない。シャキッとしてウマそうだ。二首目、一転して「藻屑の老い」。あれれ?と思うが、「凍天」に踏まれて相当な寒さであると推察した。筆者も年々、寒さが堪える。

歌評(月2回更新)

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