2013年9月15日(大沢優子)
公開されたばかりの映画『オン・ザ・ロード』を観た。第二次世界大戦後のアメリカの青年たちの無軌道な生き方を描いたロードムービーである。青年たちは盗んだ車でアメリカ大陸を疾走しながら、麻薬、セックスの日々を重ね、狂ったような生き方の中に自由の実感を求める。原作は『路上』、ビートジェネレーションの旗手と言われたジャック・ケルアックの自伝的小説である。
1984年刊行の歌集『青葦』の長いあとがきに、春日井先生は次のように記している。
「短歌との別れを果たしたあと、私は比喩的な表現を借りていえば、「路上」へ出かけて行った。身に添わなくなった魂魄は遠くさまよわせてやるのがふさわしかった。……私はギンズバーグやケラワックが立ち寄ったというコーヒー・ショップやレコード・ショップへ出かけ、彼らが歩きまわった路上をまた歩きまわった。すでに観光化し、風俗化したそれらの店や路上からは聖なる気配は失われていた。それでも私は、生きることがこんなに軽く、こんなに安らかなことを教えてくれた先人たちに感謝した。」。
伝統への回帰を決意した『青葦』の静謐な歌の底になお、青春時代の不羈の魂があることは、私の胸にあらためて迫る。
結社誌9月号より
海辺より粗き山越え二時間を西より東へ州道ひたゆく 青山 汀
めくるめく太古の空の日差しなり道なき時代(ころ)より先住民住む 同
LAに長く住まわれている青山さんの歌。木立もなく、岩肌の露出した平原には太古そのままのように無慈悲な陽が射している。だがその過酷な地にも先住民はいた。乾いた広大な風景と、そこに交錯する人間の時間を淡々と、しかも文語旧仮名を用いて詠む。抒情性を拒む乾いた風土のなかに自らの根拠を問えば、異郷にある思いが常に立ちのぼるのかもしれない。
鮎の骨するり抜ければ須臾の間を銀釵(ぎんさい)のごと微妙に震ふ 加藤すみ子
鮎という漢字は、魚と粘るの会意文字で、もともとはナマズのことという。何だかがっかり、と思うのは、今の私たちが鮎という文字から、ほっそりと涼やかなアユを思い浮かべるからであろう。そのイメージをまさに詠いきったような上記の歌。きれいに外された骨が、まるで銀のかんざしのように震えている。「須臾の間」「銀釵」「微妙」と漢語を畳みかけて、硬質な世界を生かしている。
圧力に屈するという訳じゃなく心の中にある沈下橋 仙田まゆみ
沈下橋は低水位のときのみ使える、山間部の生活の便宜のために架けられた橋という。他者からの強い働きかけを回避しながら、自己のプライドは守る。「沈下橋」という絶妙な言葉が効いていて、ユーモラスにへこんでいる。
義理も何も須可捨焉乎(すてつちまおか)と思ひつつ昼の素麺ずるずる啜る 神谷由希
煩わしい世間の事は、いっそ捨てっちまおうか、と俗な言い方をしながら、この気取った漢文的表記は何だろう。ことばと裏腹にやはり義理には抗しきれない現実生活をうまく描出している。昼の素麺を啜るところに現実感があり、観念の世界が具体性をもつ。
「須可捨焉乎」には先蹤があり、竹下しづの女の俳句「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎」を踏まえている。
総合誌は「現代詩手帖」9月号から
詩型の越境というテーマの特集で、詩、俳句、短歌の作者がそれぞれその可能性を探っている。シンポジウムⅡでは、堀田季何さんの司会により石川美南、光森裕樹、柴田千晶、榮猿丸、野村喜和夫の諸氏が「詩型の融合は可能か?」というテーマで意見交換していて興味深い。
掲載されている短歌作品から。
たましひのかそけきときし大空にあらはれて椅子ひとつゆふばゆ 渡辺松男
この路をすきとほらせよ車椅子みづいろなればさかなもよりく 同
街の音を塞きゐし扉ひらかれて人のからだの気配過ぎたり 横山未来子
うすみどりの脚すきとほる蜘蛛の子の斜めにのぼるわが身はるけし 同
両人ともたそがれ時に、かそかなたましい、人のからだの気配を感受している。自他の領域は模糊として、不在のたましいをかなたに見ているような不思議な歌である。そして不思議なのに、不自然でない。