2019年1月1日(三枝貞代)

新年明けましておめでとうございます
皆さまお健やかに新春をお迎えの事と思います
今年も中部短歌会ホームページをよろしくお願い申し上げます

結社のホームページに月2回の歌評コーナーが新設されたのは約8年前の4月1日である。今読み返しても、長谷川と茂古さんの簡潔な挨拶が初々しい。今年5月1日には新元号になる。新しい時代に向かい、この歌評コーナーがさらに充実し、多くの方々に親しまれますようにと願う。勉強不足の私であるが諸先輩方に学ばせていただき、刺激をいただきながら歩んでいけたらと思っている。

まずは結社誌12月号より

街歩きツアーにて行く小春日の陽にほのぼのと海鼠(なまこ)壁あり 大塚 寅彦
細木組む連子格子に射すときを秋のゆふかげ遠つ世に似む        同
仏足石おほきみ足はいづこへと歩み出でたる跡か手触れぬ        同
朝顔の時じき青の揺れゐるやカフェぬち響くウッドベースに       同
武田邸茶釜の黙(もだ)に真向ひてこころ鎮めつ歌会までを       同

大塚代表の「有松街歩き」と題された一連。有松は正式には宿場ではなく、池鯉鮒宿と鳴海宿のあいだにできた間宿(あいのじゅく)である。2018年10月「歴史を短歌でひもとく有松のまち歩き」と題して、名古屋市で初のまち歩きツアーが実施された。その時講師に招かれた大塚代表も参加者と一緒に有松の風情ある街並みを散策された、のどかな一日の連作である。ネットにはその時の模様が記事になっている。参加者20名は大塚代表の短歌レクチャーを受けたあと、ツアーガイドから江戸時代の歴史を交えた説明を聞きながら建造物を見て回り、普段は立ち入れない有松・鳴海絞の製造所で職人の話を聞いたと報告されている。短歌に初挑戦の方もいたようだ。今まで短歌に無縁であった方が、歌に詠むという心構えで風情ある街並みを見て歩き、自分の内に眠る詩心を覚ましていかれたことを素晴らしいと思う。短歌人口を広げる意味においても良い企画だったのではないだろうか。有松支部で活動している仲間の皆さまの姿が浮かんでさらに応援したい気持ちになった。

一首目、二首目から旧東海道の古い町並みの、その風情に心を委ね和んでいる作者の姿が見えるようだ。三首目の歌は、祇園寺にある仏足石を見たときのことだろう。結句の〈跡か手触れぬ〉に実感があり仏足石がより身近に感じられる。日本では奈良の薬師寺のものが最古と言われている。五首目にはツアーの最後に設けられた歌会開始を待つ、講師としての心情が率直に詠まれている。〈茶釜の黙(もだ)に真向ひて〉の表現が特に好きである。 端正な文語で詠む大塚代表の歌の姿は美しい。さりげない情景を切り取られたこの一連にも詩情がある。

はらはらと降りくる雨に盆踊りの手ぶりやさしく招く魂あり     古谷 智子
卵つるりとむきたるごとき目覚めなり高速バスに眠りこけゐて      同

「郡上」と題された連作より引く。郡上おどりは岐阜県郡上市八幡町で開催される伝統的な盆踊りである。中世の「念仏踊り」や「風流踊り」の流れを汲み、日本三大盆踊りのひとつに数えられている。作者は去年の郡上おどりを見に出かけられたのだろう。一連のなかに、ご両親と弟様を亡くされた歌があることから、細い雨が降ってくる夜に見る、郡上踊りの手ぶりはあたかも亡くなった愛しい肉親の魂のように、また親しかった人の魂のように感じられたのであろう。その幻のような魂が、ここへおいでと誘っているような感覚、しみじみとした味わいのある歌である。初句のはらはらというオノマトペが読むほどに効いていると思えてくる。二首目、高速バスに、疲れて眠りこけてしまっていた。何かの拍子に突然目が覚めた作者である。〈卵つるりとむきたるごとき〉という、初句から読み手を引き込む斬新な比喩にはっとなった。その発想の豊かさ、一瞬を切り取る大切さに学ばせていただいた。

結社誌12月号には古谷智子評論集『片山廣子』の書評が松村由利子氏(かりん)と黒瀬珂欄氏(未来)の二氏によって寄せられている。松村由利子氏の書評のなかに「本書は廣子の全体像をたどるために、時間と抒情、越境の精神など四部から構成されている。どの項目にも代表歌が置かれ、あくまでも歌に即して廣子の心に近づこうとする手法が最大の読みどころであろう」とある。また黒瀬珂瀾氏は冒頭にこう述べている。「古谷智子著『片山廣子』の業績は、歌人「片山廣子」と別名義のアイルランド文学翻訳者「松村みね子」という、分断されがちであった二つの領域を、一人の内面で連続したものとして捉えることで、近代女子史上における表現の問題、特に片山廣子の短歌の価値を明らかにした点にある。まことに重厚な仕事であり、片山廣子研究の基本図書として長く参照されることになるだろう。」と寄せている。中部短歌会の選者としてご活躍していらっしゃる古谷智子先生の著書『片山廣子』を、今年はぜひ手にして読破してみようと思う。

新しきウォーキングシューズで雨上がり路上の青空ひとまたぎする  洲淵 智子
ぽうぽぽうと言つてゐるのは何と訊く幼に鳩と応へ仰ぎぬ        同

掲出歌は「幼とことば」より。一首目、雨上りの路面の窪んだ箇所の水たまりに映り込んだ青空。作者はこの日、新しいウォーキングシューズを履いて気分上々だったのだろう。下句の〈路上の青空ひとまたぎする〉という、あえて破調にした大胆な描写が歌を躍動的にして成功している。四句目を〈路上の空を〉と定型にすると、飛躍や動感の少ない平凡な歌になってしまう。助詞の〈を〉を入れないで一気に四句、五句と詠まれたところに作者の力量を感じた。二首目、平易に詠まれているが、よく味わうと詠まれた情景の奥から言葉に興味を持つ成長盛りの孫への愛しさが見えてくる。訊かれて鳩と即座に答えたものの、反射的に目で確かめる作者である。この世で見たり聞いたりする全てに興味を持つ幼い命の輝きがさりげなく詠み込まれていると感じた。

「チコちゃん」の逆麟に触れてここちよしバサリと袈裟を切られし如く 中村 孝子

NHK総合テレビで放送されているバラエティ番組、「チコちゃんに叱られる!」は本当に愉快で爽快な番組である。何でも知っているという五歳の女の子チコちゃんが、当たり前過ぎて答えに困る質問をし、解答者が答えられないとCGによって突如真っ赤な顔になり、目からは炎を噴き出して「ボーっと生きてんじゃねーよ」と叱り飛ばす。着ぐるみの五歳児の女の子の声が木村祐一であること、そのギャップもユニークで楽しい。激怒した後には、その道の専門家に詳しく取材をした答えをVTRで流して、解答者や視聴者を納得させるという構成だ。根底には視聴者を喜ばせようとする温かさに溢れている番組だと思って私も楽しく観ている。作者はそのテレビ画面を観て、逆鱗に触れたのは答えられない解答者であるが、自分自身のようにも感じ、容赦なくバッサリ切られてむしろ心地よいのだ。人気番組を説明的でなく一首に仕上げているところに感心してしまう。三句切れの歯切れよさが効いている。

次に総合誌「短歌研究」2019年1月号より

総力特集として「平成の大御歌と御歌―天皇・皇后両陛下のお歌」が掲載されている。

まず、「民に寄り添う世界」と題して加賀乙彦氏が選ばれている中より二首挙げさせていただく。この平成の時代は大地震に見舞われたことが何度かあり、平成7年1月17日の阪神・淡路大震災がおきた後、被災地訪問をされたお二人の詠まれた歌である。

なゐをのがれ戸外に過す人々に雨降るさまを見るは悲しき       御製
この年の春燈(しゅんとう)かなし被災地に雛なき節句めぐり来たりて 皇后さま

第一部「平成歌会始の御製と皇后陛下御歌」より平成30年「語」を詠まれた歌を
あげさせていただく。

語りつつあしたの苑(その)を歩み行けば林の中にきんらんの咲く   御製
語るなく重きを負ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ       皇后さま

スペシャル対談を入れると70ページ余りの総力特集であり、天皇・皇后両陛下に今まで抱いていた以上の深い感銘と感動を覚えた。両陛下のお姿に胸を熱くせずにはいられない。

また同じ短歌研究2019年1月号に仲間の鷺沢朱里さんの第一歌集『ラプソディーとセレナーデ』が作品季評に取り上げられ、大変嬉しく思った。評者は3名、佐々木幸綱氏と富田睦子氏、小佐野彈氏である。小佐野氏と富田氏は第二楽章と第六楽章に鷺沢朱里さんの実生活の歌が入っているのを肯定しているが、佐々木幸綱氏は自分自身の現実の歌をいれないで一冊にしたらより面白かったのではと話している。三者それぞれに深く掘り下げて鑑賞している点に引き込まれた。佐々木幸綱氏が「海底洛中洛外図屏風」という一連、そして「青年二人同衾図屏風」を、知識に拠っているのではなくて彼の想像力に拠っている分、面白く読んだと言う。三者の書評を読み、あらためて再読してみようという気持ちがわいた。鷺沢朱里さんのますますのご活躍を祈念しています。

歌評(月2回更新)

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