2020年5月15日(雲嶋 聆)
結社誌5月号から。
つくづくに不要に不急の用ばかりこもるこころの鬱のウイルス 古谷智子
今年の流行語大賞は「不要不急」になるのではないか、なんて思われるほど、あちこちで不要不急の外出は控えるようにと言われる昨今、ふと気づくと自分の身の回りにあった用事のほとんどが「不要に不急の用」であった、そんな思いを抱くのは、たぶん作者ひとりではあるまい。外出をしなければできないような緊急の用が無いというのは、ある意味で文明の発展した現代だからこそといえ、その意味では喜ばしいことだが、果たして喜ばしいことばかりだろうか。口馴染みのよい韻律で紡がれるのは、コロナ禍の中の閉塞感だが、しかしその背後には便利さと安心を獲た代わりに何かを失った現代文明へのささやかな違和感が暗示されているともとれると思う。
僕なんかは、基本、外出するより部屋の中で本を読んだり動画を観たりする方が好きなので、外出を控えること自体はさほど苦ではないが、Stay Homeを呼び掛けられたり強制されたりすると、なんとなくストレスが溜まってしまうので、個人的に結句の「鬱のウイルス」という語は言い得て妙だと思った。
ヒトよりも精緻なるとふ烏賊の眼に見られてさむし昼のスーパー 大塚寅彦
見ることは暴力的な行為といえる。見ることは主体の視界という限られた範囲の中に、視線によって切り取った世界を無理やりにでも押し込めるという行為だからだ。ここに詠まれているイカは、パック詰めにされスーパーの食品売り場に陳列されており、いわば人間によって見られ値踏みされる側の存在である。作者はそんなイカと人間の関係を「見られて」という言葉によって逆転させ、その結果与えられた感覚を表現するものとして「さむし」という一語を添えている。「ヒト」というカタカナ表記と「烏賊」という漢字表記の対比も、人とイカの関係性の逆転を鮮やかに表しているように思う。
なんとなくだが、この一首から『イカの哲学』という少し昔の本を思い出した。どんどん出荷されていくイカの姿に天啓を得て編まれたという思想の内容は、あまり詳細を覚えていないが、人間をその精緻な眼でじっと見つめるイカの姿が、この本から受けた印象を喚起した。
雨上がり虹を渡って妹が帰って来るから天空見上ぐ 石井和子
雨上がりの空に虹がかかっていると、なんとなく嬉しいような、何か良いことがありそうな、そんな予感に心踊ることがある。顕著に表れるのが子供の頃であるとはいえ、大人になってもその感覚は残るものである。むしろ、懐かしさに彩られた子供時代の記憶が無意識の背景にある分、この感覚は強い切なさを伴ったものとなるのではないか。
切なさ。作者にとって、それは妹さんの存在なのかもしれない。雨上がりの空から虹を渡って帰ってくるというイメージがメルヘンチックでとても美しい。妹さんはどのように虹を渡ってくるのだろうか。徒歩だろうか、車のような乗り物に乗ってだろうか、それとも象や馬みたいな動物に乗ってだろうか、想像を掻き立てられる。また初句の「雨上がり」という語も、泣き晴らした感じのニュアンスを歌の背後から滲ませる効果を上げているといえる。
短歌や歌人の話ではないが、高校の文学史の授業でその名を見たときから、北村透谷が好きだった。今も好きかと言われれば、昔ほどの情熱は無いものの、それでも好きなのだと思う。
透谷の文章に「万物の声と詩人」というものがある。僕の一番好きなエッセイだ。簡単に紹介すると、詩人とは自ずから発せられているはずの万物の声を聞き取って、それを表現する存在である、万物の声を代弁する媒介である、みたいなことを詩的な文章によって綴っているものだ。詩人の吉増剛三はこれを一篇の散文詩であると評していた。
明星にせよ、根岸派にせよ、自我の拡充というか、主体の内面だったり、その目を通した世界だったり、世界に対置される私、という物語に固執していたように思われるが、そしてその構図は近代という時代によって要請されたいわば必然的に生じた物語だったといえるが、透谷のいってみれば無我の詩論は近代的ないろんな仕組みが疲弊している現代にこそ読まれるべきなのではないだろうか。透谷はこの文章を次のように締めている。
「渠を囲める小天地は悲(かなしみ)をも悦(よろこび)をも、彼を通じて発露せざることなし、渠は神聖なる蓄音器なり、万物自然の声、渠に蓄へられて、而して渠が為に世に啓示せらる。秋の虫はその悲を詩人に伝へ、空の鳥は其自由を詩人に告ぐ、牢獄も詩人は之を辞せず、碧空も詩人は之を遠しとせず、天地は一の美術なり、詩人なくんば誰れか能く斯の妙機を闡(ひら)きて之を人間に語らんか。」
その意味で、次のような歌に惹かれる。
いにしへに恋ふる鳥かも弓弦葉の御井の上より鳴き渡り行く 弓削皇子
湍を過ぎて、淵によどめる波のおも。かそけき音も なくなりにけり 釈迢空
もみぢ濃き渓谷を出でてかへりくれば石の面(おもて)のみな力ありき 前登志夫
干からびたみみずの痛み想像し私の喉は締めつけられる 鳥居