2013年6月1日(川野睦弘)
中部「短歌」二〇一三年五月号より。海野灯星「雪と月」八首。
昨日の世の悲しみを降り落とし椿の根本に霙は残る
日の脚の伸ぶれどさらに雪降る日部屋にこもりて色紙を折る
ふりかえり見たれば望の近き月ホームセンター越えて昇れり
騒がしき声消え去らぬ日の暮れに月光堂より古書届きたり
吾よりも長く生きたる古書をなづ箱の背多く「ヤケ」のあれども
食後にはヒマラヤ産の紅茶飲む雪解けのごと眠気は消えよ
立春がとうに過ぎてもめくられず部長の横の日めくり暦は
両肩のこわばり少しほぐるるやラジオ体操業務の一つ
一首目。その作歌のはじまりから、この世への願いをうたうことが作者のテーマのひとつであるようだ。
内に住む鬼を鎮めて泣きてこそこの世に平和生るるものなれ (2008年7月)
翡翠玉珊瑚に変わりゆくまでに騒がしき世は平らかとなれ (2009年8月)
「この世から差別は決してなくならない」友の言葉が頭をめぐる(2013年3月)
「悲しみは雪のように」という浜田省吾の楽曲があるが、一首目の<霙>は、昨日の世間のどういう悲しみと共に降りしきったのか。この一連は今年三月ごろの私生活をもとに作られたとおぼしく、一昨年の東日本大震災を念頭において詠まれたろうかとも思うが「昨日の記憶のように霙が今朝、椿の根かたに消えのこっている」ぐらいにさらっと詠んでしまってもよかったのでは無かろうか。なお<降り落とし>は「振り落とし」が、そして<根本>は「根元」が正しい。
二首目。春の季語<日脚伸ぶ>が使われている。一首の雰囲気は<春は名のみの 風の寒さや>とはじまる歌「早春賦」に近い。そんななか、現代ならメールのやりとりとか、ブログ、ツイッタ―の類をするだろうに、この女性は色紙を折る。何という奥床しさだろう。
三首目。<望(もち)の近き月>つまり十三夜か十四夜ぐらいの月が昇っているというシンプルな叙景ながら、好感の持てる一首だ。四句目<ホームセンター>の一語が効いている。
四首目。<騒がしき声>の出どころは職場か。それともこの世か。三~五句目がきれいにきまっているだけに、上句の曖昧さが惜しまれる。
五首目。<なづ>は「撫づ」と漢字をまじえるべきだ。また下句の<多く>の使い方にも一考を要せられたい。十冊ほどある本の多くが日ヤケしていると読まれかねないからだ。
六首目。「ヒマラヤ――雪解け――消え」という縁語で成り立つ一首か。下句の語調からは、優雅に紅茶をたしなむ姿は想像しにくい。出勤まえの慌しさが感じられる。
七首目。<部長の横>とは、部長の机の横手――それこそ座右に日めくりがあるということか。<めくられず>とは、ただ単にめくるのを忘れたのか。それとも部長が何らかの理由で不在なのか。
八首目。言わんとすることはわかるのだが、下句の言いつづめが方がとても気になる。字余りが気にならなければ「ラジオ体操も仕事のひとつ」でどうだろうか。
最後に角川「短歌」二〇一三年五月号の「作品7首」欄から。
静かなる自作朗読の声透り修二の幾編眼つむりて聞く
苅田敏夫「清らなる気魂」。かつて大修館書店から発売された『現代短歌朗詠集成』に、いまは亡き島田修二の自作朗詠が収められている。それを聞いての一首だろうか。下句<幾編>は「幾首」でもよかろう。
ライオンズマンション長町2の建つこの界隈に一年住みき
高貝次郎「螺旋階段」。上句の固有名詞にひかれてここに採る。<長町(ながまち)>とは仙台市太白(たいはく)区の地名である。
面持ちを夜陰に紛らし隣人は回覧板を差し込みてゆく
玉田一聖「二月の視線」。ながく東京に暮す作者か。三句目は「隣人が」の方がいいと思う。
ふるえつつ鼻水ふとる 駅前のバスターミナルのかたちのように
野口あや子「ターミナル」。マンガ「いなかっぺ大将」の大ちゃんが流す涙をおなじ、時計の振子に似たかたちの鼻水を、筆者は想像してしまう。いかにも、鼻腔から流れ出て<ふるえつつ/ふとる>鼻水は終末(ターミナル)のすがたにほかならない。