2017年6月1日(吉村実紀恵)

まずは結社誌5月号から。

走り去るテールランプの凍る夜は念入りに鎖す玄関の鍵    土川 誠子
自販機の置かるるひとすみ明るみてコーヒー缶を無機質に取る   同

高速道路や高層ビルを素材とした都市詠。特に都市空間における闇の捉え方が印象的だ。車が走り去った後も、眼裏で明滅を繰り返すテールランプ。その明滅は次第に心の中で大きくなっていくようだ。ひと気のない夜の路上で、そこだけが明るみ、闇にぼうっと浮かんでいる自販機には、何とも言えない不安を掻き立てられる。幻想的で人工的な光に深層を照らし出されるような不安。その不安を押し殺すように自身は敢えて無機質になる。都市を背景に、深層心理が巧みに詠われている。

枝分かれしてゆく薄き髪のごとがらんだうなる父母の家なり  福田 睦美
いと高き天まで昇れと凧はなつ廻りて風を生み出す少年      同

ドラマを感じさせる一首目。父母の家とは作者が幼少期を過ごした家でもあるはずだが、あえて「父母の家」と距離を置いたところに、作者の奥深い哀しみを感じる。薄い髪ががらんどうのようだとは、歌の構成としてはやや乱暴な気もするが、薄い髪は時間の経過を象徴し、枝分かれしてゆく髪はそれぞれの運命を携えて家を出てゆく者たちの、これからの時間を思わせる。その線上にとり残されたがらんどうの家は、ただ静かに朽ちてゆくのみ。二首目も、全く違う情景でありながら、何か同様の哀しみを感じる。凧をあげる少年を「風を生み出している」と捉える作者の謡ぶりに、束の間の生へのいとおしさと切なさとを同時に感じる。いずれの歌にも無常観が漂う。美しい調べ、字面もよく考えられていて全体的に均整のとれた歌である。

少しずつ陽射し延びゆく如月に葉月に盗られし自転車戻る    もりき 萌
何かから逃げ出すように引っ越して又引っ越してその都度失せし   同
古コートのポケットにある鍵とメモわからぬままに廃棄物とする   同

長く闘病中であられたという作者。「ふっかつのじゅもん」と題された一連は、作者の遺稿となった。ドラクエの「ふっかつのじゅもん」は、中断したゲームを再開するパスワードのような文字列のことを言うらしい。私にとっては夏、特に「まなつのまひる」は、喪失感を呼び起こす呪文だ。必要以上にモノを持たない主義ゆえ、多くのものを捨て、また失ってきたという作者。だが夏に失った自転車は、春へと向かい始めた如月に作者の元に戻ってきた。初めて自転車に乗った子どもの日の嬉しさを連れて、戻ってきたのかもしれない。風を切ってペダルを漕いだあの日のように、また次の場所へと漕ぎ出すために。

続いて総合誌は、『現代短歌』4月号の特集「震災二〇〇〇日」から。なかでも佐藤通雅氏の文章「沈黙の部分について」と、東北大学短歌会の3名を交えた座談会の記事を興味深く読んだ。佐藤は被災圏に暮らし、長年、河北新報の「河北歌壇」の選者をしている。震災後に彼が感じたのは、これまでの感覚やことばといったものが機能しなくなったということだ。特に若い人たちの間にことばが見つからない人が多くいた。一方で、短歌を表現手段として持っている人びとにとっては、五七五七七という定型がとりあえず既成のことばを表現として提出する機能を果たした。そして量も質も濃密な震災詠が毎週送られてきたという。

だが佐藤は、ひとつの重大な事実に気づいていた。それは「幼子を喪った人の歌がひとつとしてない」こと。とてもことばにできない、無言でいるしかできない人が相当数いるということであった。佐藤は宮城県高等学校文芸コンクールの選にもあたっているのだが、震災年の選考会、震災詠がゼロだったことに衝撃を受けた。震災詠が出てきたのは3年してからだったという。さらに佐藤は、チェルノブイリ原発の被災者に取材した『チェルノブイリの祈り』は、発表までに十年かかったという話も引き合いに出している。

恋バナの声色のまま半壊なら全壊してほしかったと佳世は   工藤玲音
おほづちと父は訛れり古里のニュースにそつと呟く声に    越田勇俊

死がときに光にかはることを告ぐ 氷柱は宙(そら)を身にとらへつつ 浅野大輝

座談会に参加した、東北大学短歌会の皆さんの歌。震災の当時彼らは中学生か高校生、恋バナに花を咲かせる年頃であろう。ひと昔前なら歌に「恋バナ」が登場した時点で、ライトヴァ―スに括られてしまいそうだが、今はバブルの時代ではない。ネット、ケータイ、そして震災。この歌の持つリアリティーは、はからずも新しい時代の短歌の可能性を提示している。越田の歌も、肉声の歌だ。故郷というものは個々のアイデンティティーにとって決定的な何かがある。その故郷が被災地となった。チェルノブイリの人々が、インタビューを契機としてはじめて自分のことばを内部から引き寄せることができたように、彼もまた訛りのある父の声によって内面化された「古里」が引き出され、歌のことばとして詠むことができたのではないだろうか。

一方で浅野の歌は、「震災の歌である前に、一篇の詩であってほしい」、「抽象度を上げて現場からどんどん離れるのが詩なんじゃないか」といった、詩に対する自身のスタンスを裏切らない。だがこの普遍性のある美しい詩は、震災から何年も過ぎた今だからこそ生まれたのである。私が歌をつくり始めた頃、「歌は何日か寝かせるように」とよく言われたものだ。何かの出来事に触発され、感情の高ぶりに任せて歌を量産する。だが一週間もすれば、半分以上の歌を捨てることになる。時間の経過によって熱が冷め、自分の作品に対する客観的な視点が生まれるからだ。被災者が自らの経験を客観視し、一篇の詩として読者の前に差し出すとき、そこには一週間どころではない長い沈黙の年月がある。

歌評(月2回更新)

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