2017年10月1日(雪村 遙)
まずは結社誌「短歌」9月号より。
採血の血は葡萄いろに充ちてをり澄むことのなき命を量る 神谷 由希
朝貌は滅びのちからもて伸びて虚空に浄き青を噴かせり 同
一首目。血液検査を「命を量る」行為であると捉えた点が秀逸であると思う。そもそも血液が「葡萄いろ」に見えるのは、赤血球が暗赤色以外の色を吸収してしまうからである。全てを吸収するかのような「内包性」こそ、赤が「命の色」と呼ばれる所以であるのかも知れない。作者は、人間の体内を流れている血液の色調の深さ、暗さ、そして濁りに一種の感慨を覚えたのであろう。「澄むことのなき命」とは、単純に割り切ることのできない、人の心の複雑な想念や業までも暗示しているように感じられた。
二首目。朝貌が「滅びのちから」をもって咲くのだという着想が新鮮である。花が成長することと同様に、萎むことにもエネルギーを必要とするということだろうか。朝貌をとりまく「虚空」で刻々と変化していく不可視のエネルギーを、しっかりと目撃しているかのようである。「浄き青」「噴かせり」などの語句は祈りのような荘厳さを湛えており、深い精神性を感じさせる。
満員の列車に心消しをれば押しくるものは光らない繭 大沢 優子
ほたほたと満月の夜もすぎてゆき臨月といふ娘の磁力 同
一首目。結句の「光らない繭」が印象的である。満員列車のなかで押しあう体を繭に喩えたものと読んだ。これは単なる形状や質感から来る比喩とも取れるが、それ以外の意味合いも考えられる。例えば、人は誰もが繭のように自分の身体を見えない鎧で覆い、無意識のうちに自分を守る。それと同様に、作者も「心消し」た状態、つまり無心になることで、周囲から適切な心の距離を取っているのかも知れない。だとすれば、作者もまたひとつの繭である姿が見えてくる。
二首目。月の満ち欠けと命の誕生に関する歌である。もともと地球や月、太陽は引力を持ち、その引力が潮の満ち引きを発生させる。そして、その満ち引きからやがて生命が誕生してくるのだが、この歌で作者は臨月の娘に「磁力」を感じている。天体はそれ自体が巨大な磁石であるが、人もまたその身から発する磁力によって、新たな命を胎内に呼び寄せてくるのだろうか。神秘的な一首である。
次に、安藤なを子氏の第一歌集『遠きへと』(短歌研究社)より。
ネックレスはづせるときにその重さ知る ほろほろと夜のふけゆく
なにもなき部屋こそ無上のインテリア青き畳の香の清々し
秋冷の水を真白ににごらせて米磨ぎをれば心しづもる
安藤なを子氏の歌は日常にぴったりと寄り添っていて、浮わついたところがない。日々の生活を丹念に見つめ、ちいさな気づきを得るところから作歌を成立させている。その気づきは目に見えない、捉えがたいものであるが、それゆえに価値も高いといえるのではないかと思う。そもそも「価値」とは、物質的に換算できるような意味合いのものとは限らない。現代は情報社会となり、全てを可視化・数値化して、そこに現れてこないものを「存在しないもの」として排除していく傾向にある。しかし、作者はそういった風潮に流されることなく、目に見えないものの意味を的確に切り取り、読み手に伝えることに成功している。
生きてゐて喜びなしといふなかれただ向日葵は炎暑を咲けり
うすべにの花をつけゐる老木の花梨この世のほかの寂けさ
わが庭の雨にぬれゐる卯の花のけぶれる春をゆかしめむとす
職場詠や生活詠にも魅力ある歌が多いなかで、敢えて自然詠を引いた。抑制の効いたおだやかな言葉の端々に、もろもろの情感が透けて浮かび上がってくる。植物は、この作者の丁寧な筆致が映える題材であると感じた。四季のうつろいや時の流れを感じさせる、気品溢れた作品群であると思う。
生れしよりわがかたはらをゆつたりと音なく流るる木曾川よ父よ
蓮の葉に蓮のはなびらこぼれをりはや遠くへと母はゆきしや
一つぶの露は光の庭となりははそばの母ふときたるよな
家族、特に「母」との強い絆を感じさせる作品が多いが、その関係性こそが、作品から垣間見える自己肯定感や前向きさ、誠実さなどの美徳へと繋がっているのではないだろうか。この歌集全体が、自己のルーツを遡り、ひとつずつ理解して自分のものとしていくための、内なる発見の旅であるという印象を受けた。読み手は作者の辿ってきた道程を追体験し、自らの悲喜交々の体験と重ね合わせることで、最終的にはその旅中に居合わせたかのような余韻まで味わうことができるのである。