2019年7月15日(大沢 優子)

今年は梅雨明が遅いようで、日照不足がいわれている。海開きを過ぎても、海水浴客は少なく、この後の野菜や果物の実りも懸念される。人間か天候をコントロールすることは不可能なのだろう。天気予報さえ、いつも確実とは言えない。それゆえに地球の住人である人間が、自然に対して謙虚であればよいのだが。

結社誌7月号より

掲げつつ継走なすはヒトラーの世より <聖火>の聖性は何     大塚寅彦

東京オリンピックの開催も近づき、チケットの入手が話題にのぼるようになった。現在のように、オリンピアの地で採火された聖火が、開催国の聖火台まで継走するようになったのは、1936年のベルリンオリンピック大会に始まったもので、ヒトラーのプロパガンダに大いに利用されたのだった。聖なるシンボルは権力の意図に添って、民心をコントロールする手段とされやすい。今、掲げられる聖性とは何だろうか?深い自問へと誘われる歌である。

廃村となりたる村のシンボルとう桜の会の案内届く    山村博保
ダムに沈む里を見おろす高台に江戸彼岸桜は三分咲きなり  同
平成の年輪うすく重ねをり千五百歳の薄墨桜       池田あつ子
満身に治療痕負ひ永遠を求められゐる薄墨桜        同
行商の友は「御衣黄」と言いながら桜ひと枝荷台ゆ出だす  三枝貞代

7月を過ぎるとさすがに、桜の歌は季節をはずれているようにも思うが、春爛漫の華やかな桜とは違った、桜の歌にもまた心惹かれるものがある。山本作品は、ダム湖に沈んだ村の記念に植えられた桜の会に、ゆかりの人々が集まった折の歌であろう。野生種の江戸彼岸桜が、廃村となった古里に、人々の心を繋ぐよすがとなっているところに、素朴な温かさと一抹の寂しさも覚える。

池田作品の根尾谷の薄墨桜も江戸彼岸桜という。すでに樹齢1500歳だが、さらに手当を重ねながら、永遠の命を求められている。大切に保存されているのだが、尽きることのない寿命もどこか悲しい。

三枝作品の「御衣黄」はソメイヨシノよりは遅く、四月下旬に開く緑色の桜である。五月初旬の北海道松前で見たことがある。雅な名を持ちながら、地味な花色であること、行商をしている友人よりさし出された一枝であることに花ひと共にゆかしさを感じる。
7月号に掲載された歌は5月に提出された作品ではあるが、名残の桜を静かに眺めた気がした。

今年4月に橋本喜典氏が90歳で亡くなられた。著書の『続短歌憧憬』(現代短歌社・2016年刊)を紐解いてみた。

十六歳九か月なる耳が聞きし玉音といふ人間のこゑ

「短歌憧憬」と題する講演記録のなかで、氏が挙げている一首は、2008年の詩歌文学賞受賞歌集『悲母像』の中に収められている歌だ。「十六歳九か月」という、鋭敏な耳が聞き留めた玉音の記憶が、長い年月を経て一首となったのだろう。音があるのに森閑としていて底恐ろしい歌である。「十六歳九か月」は年齢をあらわす数字なのに、楷書のように一音一音がきっかり刻まれている。

音への独特の感覚は、最晩年の歌集『聖木立』(2018年刊)にある次のような歌からも知られる。

チチチチと鳴いてゐるのかこの小鳥握らばきつと温かならむ

現実には声は聞こえていないのに、想像力は小鳥の命の温感へまで広がっている。実際に掌中にはいない鳥が、「握らば」という想像の中で、より現実感をもたらす。
『続短歌憧憬』の中の<歌の「心搏」>では、稲葉京子の『沙羅の宿から』より二首を引いている。

今は昔まこと静かにかつ強く五・七・五・七・七は音楽なりき
昔々あなにやしとぞ言ひしより美しき楽の音は流れき

稲葉作品二首の、歌と音楽に触れながら、韻律の美しさを大事にすることへの共感を記している。

何人かの破調の歌の例を引いたあとで、次のように書いている。

「しかし、基本は飽くまでもこの古来からの約束の形式である。そこに私たちの「心搏」のような韻律(調べ・響き)を与えるものは、作者自身の熱い心(・)とたゆまぬ修練による技(・)とでしかない。

本著の多くの部分は、師である窪田章一郎とその父空穂についての記述で占められている。その師弟の在り方の根底に、短歌を詠むことによって人格を磨くことがあったのだということを改めて感じた。空穂と死刑囚島秋人との手紙のやりとりも、歌の巧拙以前に人間性に度々言及されていた。そのような思想は、今では歌を作るうえで目ざすものとは異なっているが、本書を読み学生時代に萬葉集のゼミで教えを受けた章一郎先生の温容をなつかしく思い出したのだった。

歌評(月2回更新)

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