2019年3月15日(神谷由希)

各地の桜便りも聞こえ始めたこの頃、今上天皇が皇祖に上位を報告する儀式も終わり、四月には新しい年号が発表される。

美しき声の韻きに告げられたし新元号の代の始まりを 大沢優子(結社誌3月号)

とはいえ、新元号の下、船出するには積み残された課題が余りにも多い。天災の時代といわれた平成の遺壊、外交、長期政権をじりじり蝕む人心の弛緩など、まさに内憂外患と言うほかない。来年のオリンピック招致、2025年大阪万博開催を無条件に喜んではいられない状況と思う。結社誌にも「詠草でたどる平成」が掲載され、往時の様々な出来事を詠草によって振り返ることができる。戦争の傷跡を修復しながら、驚異的な発展を遂げた昭和の後、何よりも物質的な豊かさを享受した平成に続いて、どんな時代が来るのだろうか。

現在日本人の70%が<幸せ>と言う。自ら紡いだ幸せの繭の外で、何かが静かに、しかし目に見えぬ速さで変化しているのではないだろうか。

とりあえず平成最後の結社誌3月号より

過去よりのどれも今問ふ(ことば)なり陽に晒されし古書市ゆけば  大塚寅彦
鐘楼に打ちたる鉄は武器となる過去のありしやおんおんと響(な)る   同

一首目、小学生時代から高校に至るまで、通学路は「御茶ノ水」経由だったので、よく「神田」に寄り道した。教科書を探すのも神田、友人とお茶をするのも神田が多かった。とりわけ古書店が軒を連ねる通りは、日向臭いような古本のにおいがして、貴重らしい本が、堆く積み上げられ、中へ入る勇気がなくて店先に放り出してある駄本の頁をめくってみたりしたものだ。何と沢山の懐かしい(ことば)が、そこに集まっていたことか。現代のBOOK OFFのようなところではなく、野天の古書市も多くあって、日灼けした背表紙を見ながら選んだのは大人になってからだった。転居の度に手放してしまった数々の本、その中の(ことば)は、今も私の裡に在って、折々に語りかけてくれる。

二首目、戦時中寺院や教会の鐘も供出され、兵器に鋳直された。金属と言う金属は、指環から襖の引手のようなものまで、徴発されたのである。おんおんと響く鐘の音色は人々の忘れかけている事柄を喚び起こそうとしているのかもしれない。

平成はみじか夜だったかもしれず江戸城跡に実る九年母     吉村実紀恵

事の多かった<平成>も、過ぎてみれば<ただ春の夜の夢のごとし>かもしれない。長く権勢を誇った江戸幕府も、邯鄲の夢が覚めれば、城跡に風が吹くばかり、という感慨であろうか。結びの<九年母>がしゃれた感じで利いている。

新年に家の修理と手を入れて嫁の天下におさまりている    角野かす美

一瞬、姑の立場からの歌かと思ってしまった。すぐ作者が、長く嫁としての暮らしを送って来られた人とわかり、一人居ながら現在の自由気儘を楽しんでおられるとわかった。
幾つもの不幸を経験されたとあるが、その後の健康と<元気なひとり>は素晴らしい。

めくるめくネット動画の片隅で眠るストレイシープのゆくへ    菊池 裕

<ストレイシープ>といえば漱石の『虞美人草』を思い出してしまうが、これはひとつの時事詠であり、常に都会的且つシニカルな姿勢を保つ作者の眼が切り取った、現代の一齣であろうか。ふと何かの危惧を感じさせるものがある。

先頃、私たちはひとつの悲しい死を知った。日本人よりも日本を愛し、日本文学に精通したドナルド・キーン氏の逝去である。今更語るまでもなく、キーン氏と親交のあった日本の文学者はあまりにも多く、氏の著書は吉田健一氏他数人の名翻訳者によって、広く紹介された。今数ある著書の中から、氏が自ら日本語で書かれた『日本語の美』(2000年刊、中央公論新社)を読み返してみたい。雑誌「中央公論」に連載した氏のエッセイを纏めた作品であるが、大岡信氏のあとがきが、氏の日本文学に対する深い敬意と愛情を語っている。氏自身「私にとって日本語は外国語ではない」と言うように、卓抜な語彙を駆使して、日本語の特徴や特異性をユーモアを交えて述べているのは、驚きの他ない。能、狂言、和歌、俳句に至るまでその造詣は限りないが、日本語の変容が著しい今、<ことば>を大切に思う者が読むべきであるかもしれない。

氏が日本の詩について一番美しい叙述だと語っている言葉、能の「関寺小町」の中の一節を引用して終わりたい。結社代表が(ことば)について詠まれているのに、相応しいかもしれない。

さざ波や 浜の真砂は尽くるとも、
浜の真砂は尽くるとも、
詠む言の葉はよも尽きじ。
青柳の 糸絶えず、
松の葉の 散り失せぬ、
種は心と 思しめせ。
たとひ時移り 事去るとも、
この歌の 文字あらば、
鳥の跡も 尽きせじや、
鳥の跡も 尽きせじや。

『古典の楽しみ』ドナルド・キーン著、大庭みな子訳(2000年刊、宝島社)

歌評(月2回更新)

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