2016年7月1日(吉田 光子)

いつからだろうか。角川の総合誌「短歌」に、〈季節の歌〉という連載作品が組まれるようになった。最近は花山周子さんが担当されているようだ。7月号には「五月の歌」が、日付や時間、気温とともに、20首ばかり掲載されている。日課として1首を作り続けるというのはとてもたいへんなことのように思えるが、これを長く続けていた人を、私は知っている。市民講座で短歌を学び始めたばかりのころ、この先輩に出会ったのだ。硬軟織り交ぜて闊達な歌を詠まれる方であり、講座全体を温かく引っ張ってくださる方でもあった。けれど、寂しいことに、少し前に遠く旅立ってしまわれた。命日は6月24日である。ちょうどこの時期に咲く夕菅は、亡き人の魂と交信するかのように、茎を細く伸ばし夕暮れに六枚の黄の花びらを開く。先輩は夕菅のほとりにゆったりと来てくれるだろうか。

では、結社誌「短歌」6月号から 

長病みのやうやく癒えて若葉どき白磁・青磁の食器を出せり   加藤 すみ子  
あさがほの展くすがたの夏茶碗父の形見に浅漬を盛る        同

漸く健康を取り戻された作者である。安堵の思いのこもった眼差しで静かに見つめておられるものは、すべてが美しい。「若葉どき」や「白磁・青磁」の語感が放つ爽やかさが、読むものの胸にひたひたと迫ってくる。2首目も、夏茶碗の清々しさが際立っている。「あさがほの展くすがた」という把握は、確かでみずみずしい。盛られたのは、紫と白の綺麗な色合いの茄子だったかもと、想像するのも楽しいことである。父の形見というドラマ、浅漬けのシャッキリ感など、この一首から立ちのぼる世界にはすらりと広がりがあるように思う。これは、作者の言葉への感覚のすばらしさによるものであろう。そしてまた、天性の優れた資質に加えて、長い間、真摯に歌と向き合ってこられたことにより培われたものではないかと、思われてならない。

樹木より生れたるプラスチックもて組まれし時計ゆつたり廻る   大塚 寅彦
〈謎(エニグマ)〉の廻るローター想はせてひめやかにあまた歯車動く      同
齧られし林檎を終(つひ)の謎として同性愛者アラン逝きにき         同

千年時計を歌った1首目から次の歌へ、そしてまた次の歌へと、歯車が噛み合うようにして導かれてゆく一連である。「千年時計」とは、2005年の愛・地球博〈愛知万博〉に出展された巨大からくり時計を指しているのかと思われる。千年時計と呼ばれたそれは、木質プラスチックを素材とした48個の歯車から成っているという。石油製プラスチックと変わらない丈夫さを持った木質プラスチックの未来への可能性と、整然と透けて見える内部の仕組みは、当時、多くの人々の関心を呼んだ。万博が終了した後は豊田市の産業文化センターに移設され、現在もロビーで時を刻み続けている。

その歯車の動きは廻り続ける謎を連想させ、そして、〈謎〉に〈エニグマ〉とルビを振ることで、アラン・チューリングが誘われることとなった。アラン・チューリングは、イギリスの天才的数学者であり、彼の存在なくしてはコンピューターを語ることはできないとさえ言われている。アランはその頭脳ゆえに、第二次世界大戦中には暗号解読に従事し、ついにドイツ軍の暗号エニグマの解読に成功したという。秘密とされねばならなかったが、大きな業績を残した彼は、しかし、突然、命を絶つ。当時は罪とされていた同性愛者であることが明るみとなり、犯罪者として裁かれたことが引き金となったとされている。だがその死については諸説あり、真実は謎である。現場に立ち会った医師の供述書によれば、死体のあったベッドのそばには毒のしみこんだ林檎が一口齧られ、皿に残されていたという。この残された林檎に、彼の最後のメッセージを読み解く説もある。

そして、「齧られた林檎」はキーワードとなり、「iPadのロゴの林檎の欠落を見るなく人ら恋唄を聴く」につながっていく。こうして、前の四首を序曲として一連の最後にこの歌が提示されたと言ってもいいだろうか。この歌に関しては、前回のHP歌評に三枝貞代さんの丁寧で行き届いた鑑賞が記されている。

「千年時計」と題された一連は、それぞれの歌の引力に加え、実物の千年時計にも似た多重構造的つながりの存在が、よりその魅力を深めているように感じた。

頭を撫でよと犬は我が手を甘噛みす日暮れは犬も寂しいらしく   三宅 節子
落下して滝壺に虹立たしめて春よ春よと下るみずたち         同

どちらの歌も、作者の眼差しの温かさが読む者をふわりと包んでくれる。1首目、犬は自身の寂しさを癒してほしい素振りを見せながら、実は作者を慰めようとしているのではあるまいか。作者も、きっと、それに気づいているのだろう。それは、「犬も」の「も」に込められていよう。犬も作者も、そしてたぶん多くの人にとっても、日暮れは寂しい時間なのだ。けれど、互いに寄り添って過ごせば、穏やかなやさしさに満ちた時となるに違いない。

台北の春を、私は実際には知らないが、日本より気温はやや高く、降水量も多いと聞く。また、亜熱帯気候なので、年間を通じ温暖であるらしい。それでも、春を迎えるのは、やはり心躍ることなのだろう。喜びがあふれる2首目である。虹に水の命のきらめきを見る思いがする。

次に、「歌壇」6月号から

日の暮れを子の声は灯りつつ読めり「うぐひす長者」「いもほり長者」 大口玲子
ふきのたうのひとつとなりてさみどりの音読をせり息子七歳       同

童話の音読をする子どもの様子が、愛情を込めて詠まれている。「うぐひす長者」「いもほり長者」という具体名がいい。「桃太郎」や「一寸法師」ほどにはポピュラーでないところが今の七歳児の生活の感覚を正しく伝えてくれている。2首目の上句がすべてひらがなで表記されているのは、子の音読にたどたどしさが残りかわいらしい様子なのをを示しているのかも知れない。

Wi-Fiの繋がりとだえし時の間の孤島のごとき家にのむ 水    本土美紀江
ATMの前に列なす人なかに連休明けの背骨を伸ばす          同
道端に蒲公英咲いて蝶々来てなかったことになってゆく冬        同

Wi-Fiという見えない網に誰もが絡め取られているような今の時代。ついと逃れてひっそりと息づく時間がほしいと願うことは、誰にだってあるだろう。 Wi-Fiの繋がりが途絶えるということは、言わば孤島と呼ぶべき場所を意味するとしても、そのような環境に身を置くことでしか得られない安らぎも確かにあるはず。いずれまた人々との込み入った繋がりの中へ入ってゆかねばならない自分自身に、こうして力を蓄える作者なのだろう。2首目は、視点が素敵だ。休日明けのATMは混雑しているとみえる。強い説得力を持った歌である。下句の表現もまた、しっかりと歌を支えている。3首目は、ほのぼのとした中に、なくなってゆくもの、忘れられてゆくものへの少し複雑な思いが詠まれている。作者は立ち止まって時の流れを静かに見つめているのだ。なかったことになってゆくものは、しかしながら、決してなくならないものを内包していると、心につぶやきながら。

歌評(月2回更新)

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