2016年3月1日(雲嶋 聆)
川上未映子の『乳と卵』を読んだ。2008年に芥川賞を受賞した小説である。一文がとても長くしなやかで、その独特のリズムというか呼吸は、たとえば句切れのない短歌の調べに通じるものがあるように思った。
さて、結社誌は2月号から。
我ならぬわれの乗る船北国の海中(わたなか)ふかく沈むにあらずや(神谷由希)
ニュースだろうか、歴史の事件だろうか、あるいは何かのフィクションだろうか、「北国の海」という言葉から何となくオホーツク海あたりを連想してしまうが、その海底に沈んでしまった船に、自分の分身を幻視してしまった歌である。悲劇は常に物語を孕む。船の沈没という「タイタニック」さながらの悲劇を背景に、物語の登場人物(主人公だろうか)としての「私」とそれを見つめている観察者あるいは鑑賞者としての「私」、二つに引き剥がされた「私」を言い表すものとして「我ならぬわれ」という言葉を読んだ。
どうしても今夜はねむれない今のわたしはわたしに戻れずにゐる(紀水章生)
眠れないときというのは、不思議なもので、眠ろうと焦れば焦るほど、かえって頭が冴えわたり眠れなくなるのだが、「わたし」に戻れない「わたし」、という表現でそのあたりの感覚が言い当てられていると思った。たしかに、体は眠っているけど頭は覚めている、そんな眠れないときのあの感じはどこか幽体離脱じみていて、ともすれば眠っている自分とそれを上から見ている自分というふうに、自分そのものが二つに分離してしまったような錯覚に陥る気がする。「ねむれない」というひらがな表記や、二句目から三句目にかけての句跨りのリズムが、あたかも夢と現実、眠りと覚醒のあいだをたゆたっているような、やわらかくも不安定な曖昧模糊とした意識の流れを演出しているように感じた。そして、結句の「戻れずにゐる」からは眠りたいのに眠れないという焦燥感が滲み出ていた。
冬ざれの欅並木をまつ直ぐに歩む目的など無いわたし(菊池裕)
これは一種の風刺というか社会詠のように読んだ。「冬ざれの欅並木」という言葉のざらついた感触は、将来設計やヴィジョンといった目的を持つことを強要してくる社会に生きる体感に通じ、その中をあたかも目的を持っているかのように「真つすぐに」生きる「わたし」は、実はベルトコンベアーに乗せられているだけで人生の「目的など無い」のだというのも、今を生きる感覚といえる。「悪の華」と題された連作の冒頭の一首だが、「悪の華」といえばボードレールの詩集である。塚本邦雄はボードレール的な悪を躍起になって短歌に導入しようとしていた印象を受けるのだが、昨年の「短歌研究」10月号に収録されていた塚本についての座談会によると、彼は風刺の精神を短歌に持ち込んだ人でもあったらしい。
歌集は2月に刊行された『キリンの子 鳥居歌集』(鳥居)より。
目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ
藍色の背景に黄色い三日月、いや満月だろうか、その下で黒い睫毛に覆われた目の「キリンの子」がすうっと首をのばしている、そんな絵本の表紙のようなやさしい描写が光る一首である。キリンといえば、親子で寄り添うように生きている気がするが、ここで詠われているキリンは母親不在の子どもであり、月になってしまった母親を慕ってひとり首をのばしているようにも見える。やさしい絵柄のうしろには、母親と引き離された「キリンの子」の深い悲しみが横たわっているように感じられる。作者は小学生のときに母親を自殺で亡くしているから、この「キリンの子」は作者の分身であるといえるかもしれない。
『キリンの子 鳥居歌集』には、母親を詠んだ歌、母親を思う歌が多く収められているが、その中で特に印象に残ったものを、五首、最後に引用してみたいと思う。
コロッケがこんがり揚がる夕暮れの母に呼ばれるまでのうたた寝
大きく手を振れば大きく振り返す母が見えなくなる曲がり角
あおぞらが、妙に、乾いて、紫陽花が、路に、あざやか なんで死んだの
大花火消えて母まで消えそうで必死に母の手を握りおり
秋風のうすく溜まれる木の皿に亡母(はは)の分まで梨を並べつ