2017年3月1日(雪村遥)

まずは結社誌「短歌」2月号より。

跳びつかれ胸に伝はる汝が鼓動七倍速で生きてるんだね   安藤 なを子

どのような動物も、一生のあいだの心拍数は変わらないという話を聞いたことがある。それはつまり、鼓動の速さによって寿命の長さが決まる、ということである。
作者は飼い犬を抱いたときに、その心拍の速さだけではなく、共に生きる時間が有限であることや、その時間のかけがえのなさに気づいたのであろう。飼い主と犬の間に交わされる愛情を感じることができる。 

饒舌ののちの沈黙サンゴジュの赤き実日ごと黒くなりゆく   洲淵 智子

サンゴジュは、赤い実を珊瑚に例えて命名された常緑樹である。実が熟して、赤からやがて黒へと変色していく過程を、人のこころが熟していく過程に重ね合わせているものとして読んだ。ひとしきり誰かと会話をしたあと、その会話を咀嚼し、整理していくためには沈黙の時間が必要になる。「饒舌」と「沈黙」がそれぞれ赤と黒に呼応しており、構成が美しい。

真っ白い貝がらのような父の骨サラサラと海の音が聞こえる   大橋 美知子

哀しみが透明な切なさを以って淡々と描かれており、胸を打たれる。この歌を含む一連から、「父」が海の近くで生まれ育った人であることがわかる。そこから導き出された「貝がら」であり「海の音」なのであろう。描写されていない海の青さや、「父」の佇まいまでも目の前に広がってくるかのようである。

太陽が灰色雲を抜けたとき奇跡の起きる瞬間がある   紀水 章生

日常生活のなかで、突如として平凡さとはかけ離れた、魂を揺さぶられるような瞬間に出会った経験がある人は少なくないと思う。目の前の出来事に「奇跡」を見いだす一刹那を「太陽が灰色雲を抜けたとき」としているのが言いえて妙だと思った。丁寧な自然観察から生みだされた作者の感動が、生き生きと伝わってくる。

続いて歌集は、山田航第二歌集『水に沈む羊』より。

祝福よすべてであれと病む肺のやうな卵をテーブルに置く
発車したバスがつくったさざ波は自分を水たまりと知らない
はるかなるこころの薄日そこにある時の剥片のやうな木洩れ日

山田航氏の作品の特徴として、まず繊細かつ説得力のある詩情を挙げたいと思う。きらきらと明るく淡い叙情は現代の若手歌人の傾向性のひとつであるが、この作者の場合は淡さの中にも、しっかりとした骨格が備わっている。その独特の詩的な世界観を以って読み手と正面から対峙し、説き伏せていこうとしているかのようである。

走るしかないだらうこの国道がこの世のキリトリセンとわかれば
濾過されてゆくんだ僕ら目に見えぬ弾に全身射抜かれながら
浮かんでも虹になれない水のなか世界はすでに分かたれてゐる

言葉の端々から垣間見える、何かから「切り離された」かのような感覚は、人生の初期における痛みを思い起こさせる。それは、具体的にはどのようなものだろうか。
例えば、乳児には自己と他者の区別がついていない。そして自我の目覚めとは、自己と外界との間に「境界線を引く」ことであり、それまでの全能感に満ちた世界を失う痛みを伴っている。母の胎内のような安心できる場所との繋がりを絶たれた不安感と、自己の全体性を信じることができない絶望感。作品全体の根底に、そのような或る種の「喪失の記憶」とも呼べるものが横たわっているように感じられた。

屋上から望む夕映え学校は青いばかりの底なしプール
体内の浮き袋ごと潰さむと腹なぐりあふ少年たちは
水に沈む羊のあをきまなざしよ散るな まだ、まだ水面ぢゃない

学校内でのいじめを主題にしたと思われる一連から。安全な居場所を失ってしまったことからくる、心身の悲痛な痛みがそこにある。ぴんと張り詰めた切迫感は、この作者だけではなく、口語短歌自体の持つ特徴であり、若い世代の感覚的な傾向性であるのかも知れない。あるいはインターネットやSNSの登場によって個人があまりにも繋がりすぎ、十分な精神的スペースを失った、現代人の有り様を反映しているのではないだろうか。

歌評(月2回更新)

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