2013年7月1日(長谷川と茂古)

6月下旬くらいから、スーパーで蛸の売り出しを見かける。半夏生にむけてのセールなのか。それとも蛸の美味しい季節なのか。いずれにしても、胡瓜とみょうがをあわせた酢の物が一番だと思う。関西に住んでいたころは、夏になると「魚そうめん」が楽しみだったが、関東では見かけたことがない。出汁に少し酢を混ぜたもので和え、針しょうがと共に食す。ああ、冷酒を呑みたくなってきた。

結社誌は6月号から。

水に棲む女のような紫陽花の下に子どもが乳歯を埋める    中畑智江

傘いちまい枝に暴れし後われに何をするでもなく飛び去りぬ    同

連作「傘いちまい」より引いた。一首目、紫陽花が人の姿になったところを想像すると、その足元で「子どもが乳歯を埋める」のだ。なにやら怖ろしい景色にみえる。CLAMPの『ホリック~×××HOLiC~』第5話に「紫陽花」というのがある。あちらは真っ赤な紫陽花であったが、中畑作品のは青い紫陽花のような気がする。「水に棲」んでいるからかもしれない。乳歯は子どもの身代わり、とも読めて背後に物語を感じる。二首目、傘をいちまい、にまいとは数えない。おそらく、枝にひっかかって布の切れ端のように変形しているのだろう。こちらに飛んでこないかと、はらはらしながら見ていたが、「われ」のところには来ず飛び去った。淡々とした詠いぶりに説得力のある実景が間違いなく読者に伝わる。

点滴壜交換の所作に闇動くナースにまつはる薬臭もまた   水上令夫

「術後」八首のうちの一首。夜、看護師が点滴壜の交換に来たときの歌。「薬臭」は消毒液の混ざった匂いか。看護師の動き、と詠わないところが良い。静かな儀式のようでもある。

〈松林図〉に流れる時間モナリザの背後の景のふと浮かびくる  柴田今日子

長谷川等伯の「松林図屏風」である。濃墨と淡墨の松の姿が幻想的な空間を生み出している。作者は、この等伯の絵をみていると「モナリザ」の背景が浮かぶ、という。「モナリザ」にはその微笑のみならず、背景にも謎があるといわれている。過去に描かれた傑作と現代の人間が対峙するとき、心のなかで何かが起こる。等伯とレオナルド・ダ・ヴィンチの組合せは作者の直感。二人の天才には共通点があるのかもしれない。

続いて角川「短歌」7月号より。

息子もう泣くことのなきごとき顔ニラレバ炒めの上に光らす  米川千嘉子

あらはれてすべての人間(ひと)を愚者となすくろく焦げたるちひさき毛もの  同

人は帰心を速度にしたり水無月の闇ゆく最終「のぞみ」の帰心   同

第47回迢空賞受賞第一作の「藤波」から。一首目、親にとっては生まれたときのこと、歩き始めや、幼稚園、小学校の入学式など節目節目のことを覚えているものだ。大人に成長した喜びも確かにあるが、あの頃は可愛かったのにねえ、という思いは拭いきれない。子どもにしてみれば、そんなことを言われても困るだろうが。「ニラレバ」が効いている。「もう泣くことのなきごとき」も面白い。二首目、福島第一原発、および第二原発で何度かネズミによる配電盤のショート等の事故が起こっている。ネズミによって冷却装置が停止したり、点検したりと原発を管理する側はおおごとである。最先端であるはずの機械もネズミの侵入にはかなわないのか。まさに「人間を愚者となす」。「ああ今夜もぺたぺたしゆるしゆるかりかりと触れられをらむ原子力発電所」という歌もあり、「ぺたぺたしゆるしゆるかりかり」が不気味に響く。三首目、なるほど新幹線やリニアモーターカーなどの開発は、「帰心」がさせたのか。最終の新幹線「のぞみ」を実景としながら、今回の原発事故とその復旧や原発の是非を巡り、発明や技術を進めてきた人間の望みとは最終的にどこまでいくのか、「水無月の闇」のなかにあって先が見えない、と言っているようだ。

歌評(月2回更新)

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