2012年7月15日(神谷由希)
木篇をや水辺となす梅の雨 伊東信徳
「水辺」は連歌、連句の用語で、水に関わるものの総称である。小暑二侯の時季、日本列島は梅雨明けを待っている。「墜栗花(ついり)」に始まり、「青梅雨」、「走り梅雨」、「男梅雨」、「女梅雨」等々、さまざまな名称があるが、九州、和歌山地方は文字通り「暴れ梅雨」「荒れ梅雨」であろう。「黴雨」と言うように、久びさに披く古書の頁は、何となくかびの匂いがするようだ。
さて、今回は水に関わりのある歌を選んでみた。結社誌七月号より。
眼より耳よりはやく雨を知る肌へしみじみ生きものである 近藤寿美子
女性ならではの繊細な感覚。視覚、聴覚、触覚など、直接的な感覚の他に、全身を被う肌には、予兆を捉えるちからがあるという事だろうか。「肌で感じる」は生なましく、「肌ごころ」なる言葉もあるようだ。この季節、肌もしっとりと雨季を帯びる。
鯉のぼり日本人町の風を呑む故郷(ふるさと)遠く泳ぎきたりて 青山 汀
市街地で鯉幟を余り見かけなくなって、久しい。海彼に住む日本人の方々ほど、古い故国のしきたりを守り、郷愁を感じておられるのだろうか。「風を呑む」ほどの鯉は、大陸の広い空がなければ、泳ぐことができないのかも知れない。堂々として大きい歌いぶりである。
蜘蛛の糸張られて蹲踞(つくばひ)ゆるみゐる時間の外のみづおとのして 人見 邦子
茶室の傍の蹲踞に、蜘蛛が巣をかけている。と言うことは、満ちている筈の水が乾いている状況。作者はそこにあるべき水、又は嘗てあった水の清らかさ、蹲踞を使う人の静かなけはいを、聞き分けているのだろうか。「ゆるみゐる」は、忘れられた蹲踞の嘆きでもあろう。
もしぼくが透明人間だつたならビニール傘を差して彼岸へ 菊池 裕
なぜビニール傘なのか。彼岸への道は雨ふりなのかと思うけれど、作者とすれば、晴れの日に、却って傘をさすかも知れない。ビニール傘と言えども骨はあるので、彼岸の邏卒に見られてしまう。透明人間のままの方がいいのに。
続いて「短歌往来」七月号より。
生殖のためのものゆゑ花ぢつと見るをせざりし安永蕗子 伊藤一彦
日常は日の常、月の常にして水の常なりと歌論を聞きき 同
一首目の歌には、「独身のまま今年三月十七日逝去。」と詞書がある。物故された安永蕗子氏へのオマージュ。韻きの高い、知的な構成の歌の数々の中に、たしかに花の歌は多くなかったような気がする。
マナティがキャベツを食べる口見つつぼうつと百年ほどの経ちたり 栗木京子
さしかけてもらふものなり雨傘は表参道の夜の青葉冷ゆ 同
水族館のマナティは、キャベツを食べるのだろうか。マナティの常食は何か知らない。たぶん海草と思うが。食事風景を見ていて、思わず時が経ってしまった感じが、のんびりとしていて面白い。後述の歌については、「ひとりでさした傘ならば・・・」と言う俗謡が口にのぼって来るような、一種の艶っぽさを下句の「青葉冷ゆ」でひき締めている感があり、小気味のよい歌と思った。