2016年7月15日(雲嶋聆)

結社誌は7月号から。

自らの翳(かげ)描くごとゴリアテの首吊り下げたダヴィデの悲しみ 清水美織

ダヴィデは古代イスラエルの王である。未だ羊飼いであった青年ダヴィデは、サウル王率いるイスラエル軍のもとへ兄たちの陣中見舞いに来たのだった。イスラエルの兵士たちは敵である巨人ゴリアテの豪勇ぶりに恐れをなしていた。そんななか、ダヴィデはゴリアテに一騎打ちを挑み、打ち勝ったのである。

本来であれば、栄光に満ちた図像になるはずのこの主題を、カラヴァッジョは「悲しみ」として描く。バロック絵画を代表する画家カラヴァッジョは聖なるものと俗なるものを結びつけて描いたという。聖と俗、光と影、明と暗、二項対立の緊張によって、彼はバロック期最大の画家となった。そういえば、カラヴァッジョは殺人の咎で追われる身となり、最後は処刑されていた。

それを踏まえると、「カラヴァッジョ」と題された連作の一首であるこの歌の初句「自らの翳」と結句「ダヴィデの悲しみ」が殺人という行為を合わせ鏡にして響きあっているように感じられる。殺人は何故、平時には罪として弾劾されるのに、戦時には英雄的な行為として賞賛されるのか、そんな問いを投げかけているようで、どことなしに神妙な気持ちになる。

家持の愛でしカタカゴはかなきにその実くりくり風に頷く 牧正吾

万葉集に家持の作として「もののふの八十乙女らが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花」というのがあるが、おそらくそれを踏まえた一首。四句目の「くりくり」というオノマトペが決まっている。ふつうであれば、目がくりくりしていて可愛いなどと使うところを、この歌ではカタカゴの実を形容する言葉として用いているところに新鮮な響きがあるし、家持の歌の「乙女」という言葉からの連想のようにも感じられる。また、堅香子はカタクリの別名でもあり、カタクリのクリと「くりくり」のくりが、響きあっているように思われる。そして結句「風に頷く」が「くりくり」を受けて、爽やかな余韻を与えてくれる。

橘氏廊下の隅で立ち話言葉に詰まって立場無しとか 山口竜也

意味よりも音に重点を置いて、ひたすらに楽しい一首。「短歌研究」七月号の笹公人の文章「短歌は音楽だ」や同六月号の山田航の文章「押韻論の時代が来る」を思い出した。「タチバナシ」という言葉を初句「橘氏」、三句目「立ち話」、結句「立場無し」と変奏させているのだが、この韻の踏み方が心地よい。舌触りのよい感じがするのだ。そういえば、漢詩の脚韻は基本的に偶数句で踏むようになっていたし、イギリスのソネットも脚韻は基本的に一行あけで踏んでいた。洋の東西を問わず、それが韻を踏む際の一つの形式なのかもしれない。この歌もまた、一句あけで同じ音を重ねていて、そういった韻を踏む際のパターンみたいなものを考えると、そこにこの歌の舌触りのよさの秘密があるのだろう。
総合誌は「現代短歌」7月号より。

道化師の厳しき素顔思いおり病に相応う歌をつくりて 鳥居
一斉に土より生れて炎天を鳴く蝉または死者の口寄せ 同

「オルフェウスの庭」と題された連作のなかの二首。オルフェウスはギリシア神話に登場する人物で、死んだ妻を求めて冥界にくだった詩人である。

一首目。なんとなく「ピエロ」というSEKAI NO OWARI の楽曲を連想した。そのなかに「危ないから空中ブランコなんてしなくていいんだよ/『私がやらなきゃ、誰がやるの!』とそう言って君は笑う」という歌詞があるのだが、「厳しき素顔」という言葉からは、そんな姿が連想される。それはまた、自身のツイッターでファン(読者)への愛情を語り、歌集へのサイン会等ファンサービスに余念の無い彼女自身の姿ともいえる。同時に、三句目「思いおり」からは、「病」に苦しみながら、それさえ歌として昇華させようとする作者は自戒として敢えて「道化師の厳しき素顔」を思い浮かべているような印象を受ける。

二首目。一首全体の勢いが、蝉の鳴き声そのものを表しているような歌である。言葉に隙が無く、それがある種の緊張感を醸している。蝉の鳴き声とはなかなか結びつかない「死者の口寄せ」という表現を結句に持ってくることで、ある意味予定調和的ともいえる四句目までの緊密な空気に小さな裂け目を与え、綱渡り的な美を創出している。

ところで、明治時代の詩人北村透谷が「万物の声と詩人」という文章の中で、万物の声を聞き取ってそれを代わりに表現するのが詩人の役割である、といった意味のことをいっているが、「死者の口寄せ」をする蝉は、詩人のオルフェウスであり、同時に歌人の作者自身でもある、と解釈できるように思う。

歌評(月2回更新)

ページのトップへ戻る