2017年2月1日(神谷由希)

2017年新春、一月号は通巻千百号記念号として、藤原龍一郎氏、佐伯裕子氏、春日いづみ氏、大辻隆弘氏、東 直子氏の寄稿が誌面を飾り、また大塚代表初め結社古参の大先輩、杉本容子氏、斎藤すみ子氏 、古谷智子氏、菊池 裕氏に、それぞれ若手が作歌のことなど訊くという華やかな構成となった。九十四周年記念全国大会に於ける新人賞、短歌賞、奨励賞受賞者の作品も掲載され、読み応えのある内容と思われる。結社の今まで、これからを語る様々な思いの中で、昨年十一月物故された稲葉京子氏についての文が多々あり、再び哀悼の念を深くした。殊にかつて十年余りカルチャーセンターで教えを受け、ご自宅の歌会に参加した者にとって、結社のそれこそ結び目の一つを失った気がするのは、どうしようもない。

まだ続く厳寒の中、結社は代表のいう自由さと、研鑽の意思の重みをもって、新しい年に歩み出そうとしている。世界そのものが、大きく揺らぎかけている現在、短歌もさらに変化していくに違いない。稲葉氏の澄明な精神性、繊細ながらどこか強靭な美学が保たれ続けることを願ってやまない。

【結社誌1月号より】 

青い目の刺客少女の名はあずみ甲斐の事件のその後を知らず   宇都宮勝洋

現実に起こった事件なら詳しい方だが、これは小山ゆう原作の<あずみ>なる漫画に由来するらしい。上戸彩主演で映画化され、舞台で上演されてもいるらしいが、寡聞にして知らなかった。短歌界をも席巻しつつあるサブカルチャーは、時として難問をつきつけて来る。ともあれ、歌の構成からすれば、初句の<刺客>で切るのか、<刺客少女>と続くのか、後者と思うが、はっきりさせたい。

薄ピンクのマニュキアを爪にほどこせば広げ見る手は美しく思えり  都築婦美子

“おしゃれ”という題の連作の中の一首。他に“ロングのワンピース”“朝朝のシャワー”など、作者の美への情熱が十二分に窺える。九十一歳になられ、いたわられる事に抵抗を感じつつ、背筋をきりりと立てておられる所作が見えて美しい。

ステーキといへばチャコだと知る術も無きにしもあれ伊丹十三   菊池 裕

“チャコ”とは六本木にあった<射虎>のことだろう。作品の中に<野獣会><キャンティ><ニコラス>等の名が、次々出てきて懐かしい。当時若手俳優や、作家、不良坊ちゃん達の溜まり場だった六本木だが、洒落た店が並ぶ割に、まだどこか田舎臭い雰囲気を残していて、ふしぎな租界のような感があった。<キャンティ>の二階には、<ベビードール>という店があって、当時東京のどこでも手に入らない小粋な小物が買えたものだった。

<生きて負ふ>天と地のあはひに立ち尽くし一生すぎなば鳥になるべし 福田睦美

初句の<生きて負ふ>は、山中智恵子の歌<行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ>に触発されて、生まれた言葉であろうか。また鳥という詞もあるが、片や鳥髪山、片や鳥に化す意味合いで異なる。壮大な言葉の使い方で、歌の格調を保ちながら、天命というものの淋しさ、はかなさを表現していると言えよう。

続いて『短歌を詠む科学者たち』松村由利子(春秋社)について触れる。

登場する七人の科学者のうち、すでに歌人として声名の高い斎藤茂吉、石原純、永田和宏、坂井修一の四氏以外、短歌との関りがあまり知られていない湯川秀樹氏、柳澤桂子氏の作品を選んでみた。

物みなの底にひとつの法(のり)ありと日にけに深く思ひ入りつつ   湯川秀樹 
二人きて傘ひとつ借りて出でてみる海辺の宿の花の雨かな       同
天地(あめつち)のわかれし時に成りしとふ原子ふたたび砕けちる今    同
思ひきや東の国にわれ生(あ)れてうつつに今日の日にあはんとは    同
天地は逆旅なるかも鳥も人もいづこより来ていづこにか去る       同

寡黙な研究者であった湯川秀樹は、短歌を一生の伴侶とした。二首目は新婚当時、三首目は日本に原爆が投下され、湯川が科学者としての責任を痛感した時の作品である。初のノーベル賞受賞者として詠んだ四首目の歌、晩年の李白の詩に由来する逆旅(はたごを意味する)の歌に至るまで、短歌は湯川の研究生活を支え続けた。平和を希求してやまなかった彼の柔らかな感性は、現代の科学にとっても欠くべからざるものではないだろうか。 

生物が三000万種いるという地球の上で私も一種       柳澤桂子
夏空に星飛ぶごとくバッハ満ち望みなき身に望み生まるる     同 
MOMAの中庭で胎児孕みて写されし私は宇宙を知らなかった    同
一口のパンが喉(のみど)を通った日私は深紅の薔薇になった    同
海豹の胎児に瞳ができるころ海よ静かにさらさら歌え       同 

生命科学者として恵まれた出発をし、コロンビア大学への留学、結婚、出産を経て、研究生活に入った、前途洋々とも思われる柳澤の日々に病魔の影が射したのは、一九七五年ごろのこと。やがて病状は悪化し、研究所を解雇される。何度か奇跡のように好転しても、ついには寝たきりの生活となり、その中からやがて、肉体を解き放たれた強靭な心の歌が生まれて来る。己自身、己の病苦を見据え続けた柳澤に、生命(即ち生と死)科学者としての究極の姿勢をみることができる気がする。

歌評(月2回更新)

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