2016年9月15日(吉村実紀恵)
先日、通訳ガイド仲間と渋谷の刀剣博物館に足を延ばした。その日は特別展で、絢爛たる花鳥の意匠をこらした刀装具の数々が展示されていた。館内の半数は外国人。日本刀の知識は皆無だがガイドとしての話の種にでもなれば、という私たちの印象に最も残ったのは、ガラスケースの上に這いつくばるようにして小柄や笄に見入る外国人男性の姿だった。
亀井勝一郎は著書『恋愛論』で、美術という概念に対する独特の見解を述べている。「厳しい抑制のもとに、仏像や絵画や工芸品をガラス越しに眺める美術館とは、近代の進歩であるのか、それとも愛情の低下であるのか」。仏像は美術ではなく信仰の対象であり、刀剣は武器である。そもそも彫刻も絵画も工芸も、日常身辺に置かれて愛撫されるもので、美術となって博物館のガラスの牢獄に閉じ込められると、信心や愛撫から無限に隔離されてしまうのではないかという疑問を投げかける。さらに「われわれは比較し、研究し、納得して、それを教養と呼んでいますが、唯一の愛着を禁じ得ない品を、わが手にとりわがものとして、いわば相聞の関係に入ることは絶対にゆるされぬのです。」と続けている。
博物館や美術館での鑑賞を題に採った歌は多い。歌人はその鑑賞の成果を定型の器に盛り込むことで、美術品をガラスケースから取り出し、相聞の関係に入ることのできる特権を有しているのだと言えなくもない。
結社誌「短歌」8月号から。
LEDひかり冴えつつ日光と月光菩薩ケースに笑まう 安部 淑子
X線に北斗七星浮かび来ぬ剣秘めたる宙ひらかれて 同
どちらの歌も博物館での展示作品を詠んだものと思われる。菩薩の美しさも、刀身にひらめく広大な宇宙も、ガラス越しに、さらには文明の利器の助けを借りて鑑賞されている。一首目で作者は、信仰の対象であるはずの菩薩が万全の装置によって「鑑賞されている」ことにシニカルな視線を向けている。衆生を救うために発光する菩薩がLEDに照らされているという逆説的な構造が面白い。一方で二首目においては、X線によって明らかにされた神秘に感銘を受けている。この鑑賞体験を歌いとどめた作者が、これから七星剣との相聞関係に入っていくであろうことを予期させる。
葉の揺れる音か優しき心地して再就職の場に慣れはじむ 岩原 良晴
4人に1人が65歳以上の日本において、定年後の再就職は想像以上に難しいと聞く。木々の新緑は希望に満ちた旅立ちや新しい始まりをイメージさせるが、第二の人生を歩み始めた作者にとっての緑は、もっと別の意味合いを帯びる。作者の場合、定年まで働いた企業とは別の職場で再出発をしたようだから、継続雇用と比べて新しい環境になじむ苦労はより大きかっただろう。だが心のひだに分け入るような優しい音に耳を澄ます作者には、人生のあらゆる側面を心静かに受け止める準備ができている。それは円熟の境地に到達した作者への、自然からの祝福である。
古稀を過ぎてなお外つ国に仕事もつ兄は紫陽花の色今年も知らず 石橋由岐子
深夜の便でトルコに飛び立つ兄を、ただ見送るしかない作者。古稀を過ぎてなお政情の不安定な外国に赴かねばならない兄の立場、そして両親亡きあと頼りにしているその兄と、四季折々の花を楽しむようなささやかな幸福を分かち合えないことが切ない。紫陽花の色は土壌によって変化する。雨の多い日本では、青系の紫陽花が多く咲く。作者の感じている二重の切なさには、雨にしっとり濡れる青紫の紫陽花がふさわしい。争いを繰り返す地の土壌に立つ兄は、どのような色の紫陽花を想うのだろう。
続いて広坂早苗第二歌集『未明の窓』から。
排水溝につめこまれたる吸い殻の四五本を抜きあとは諦む
少年とその父親に値踏みされつつ初めての面接に入る
かこつまじ恨みじ泣かじ文法を教えてあらたまるこころあり
衣浦の秋のひかりよつらかりし去年(こぞ)のわたしを知るあおき波
作者は三児の母であり、長年県立高校の国語教諭を務めてきた。赴任した学校の環境は決して恵まれたものではなく、いじめ、退学、生徒から心無い言葉を浴びせられることもある。そのような現実を前に、描かれる学校生活や生徒たちは追憶のように淡く、作者はさながら傍観者である。内面の葛藤や孤独を包み隠さず読者の前に差し出す一方で、自分を取り巻く状況と、その当事者である自己との冷静な観察者である。教育の理想や教師としての使命感といったものからは遠い。だがそうした作歌姿勢による歌は、「人間は教育によってはじめて人間になる」という言葉に、かえって深い洞察を与えるように思う。
「新しい朝」とラジオのうたう朝日々に来たりきおさないころは
畏れなく名づけし若き日のわれをまぶしみており子の誕生日に
子の本とわれの書籍を書架に分け『赤毛のアン』はわが方に置く
わが子が経験している時間のなかに、かつての自分にもあったはずの時間を思い返す。だがそこに悲壮感はなく、失ったものを確認する作業を通して、自分のこれからの時間を前向きに紡いでいこうとしている。どの歌も文字通りまぶしいのだ。そしてそのまぶしさは、大人になった私たちも心の持ち方ひとつで別の時間を、今よりもっと濃密な時間を過ごせる可能性があるのだと気づかせてくれる。