2019年8月15日(吉田光子)

ツクツクボウシが鳴くころとなった。夏の終わりは、淡い寂しさを纏ってやってくる。
結社誌「短歌」8月号から

ネガといふ異世界のなかくろぐろと花咲き満てり幼年の春   大塚 寅彦
葉巻咥へし吉田茂の浮かぶなくテレヴィの弔砲おもく聴きゐし   同
七の月〈恐怖の大王〉降り来ずもノストラダムスの髯こはごはし  同

ネガでは、実際の世界と色相や明度が反転する。幼いころの作者の傍らに咲き満ちていた鮮やかな花々は、ネガにはくろぐろとした画像として存在するのだ。「くろぐろと」花が咲き満ちていることが少し不穏な気配を漂わせるけれど、作者にとって、美しい花群を温かな記憶とともに眼裏に呼び出すことは、たぶん、たやすいことであろう。しかしながら視界をひろげてこの歌を読めば、果たして私たちは正しく現実を捉え見つめているかと問いかけてているようでもある。そんなことを考えさせられる一首目と思う。2首目。吉田茂は、第二次世界大戦後の日本を荒廃から復興へと牽引した辣腕の宰相である。七年あまりにわたって内閣総理大臣を務めたが、豪胆な政治手法やワンマンぶり、高い美意識を示すエピソードにはことかかない。彼の死去に伴い、1967年10月31日に国葬が執り行われた。戦後、国葬となったのは吉田茂ただ一人である。官庁や学校は半休となり、テレヴィ各局は特別追悼番組を放送した。当時、作者は六歳ぐらいでおられたろうか。葉巻と白足袋が似合うといわれた吉田茂ではあるが、作者にとって彼は弔砲の響きとともに記憶されたのだ。次いで、3首目。「髯」は、「ほおひげ」を指す。ちなみに「髭」は口ひげ、「鬚」はあごひげ。ノストラダムスは16世紀に実在したフランス人の医師である。占星術を駆使し未来を予言する能力を持っていたと言われ、1973年に出版された五島勉氏の著書『ノストラダムスの大予言』で、一気に注目されるようになった。「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる」、このフレーズに五島氏が人類の滅亡という解釈を与えたことが、インパクトを増した。そして、恐怖の大王の正体について、隕石、核兵器、疫病などさまざまな解釈が生まれ、数々の憶測を生み出した。が、結局1999年7月になっても恐怖の大王は降って来なかった。今でいうならフェイクニュースといったところか。現在ならSNSで拡散し、更におおごとになったかもしれない。こわごわとした髯を豊かにたくわえ、意思の強そうな視線を静かに放つ彼の肖像を見ていると、人間の愚かさを見透かされているような感がある。

笠松へ嫁ぎ来し日に渡りたる橋を病窓の夫と見下ろす     村井佐枝子
唐代の酒客のごとしと思ひゐし川畔のホームレスたち退きたりし  同 

橋は人生の転換点を示す象徴として、ドラマ等で用いられることが多い。1首目によると、作者は文字通り橋を渡って嫁いで来られたという。結婚されてからの日々が、豊かな流れとなって作者の胸に甦ってきたのではなかろうか。そして、2首目。ともすれば、社会からはぐれてゆきそうにのみ捉えられるホームレスの姿を「唐代」の酒客のようだとする作者の眼差しの温かさ、おおらかさ。いなくなった彼らを気遣う思いも、それとなく伝わってくる。御夫君は病床におられるご様子。委細を存じあげず失礼があればお許し願いたいが、ご体調のご快復をお祈りいたします。

山道をぽつりと歩む猫がゐてただの猫とは思へぬ瞳        米山 徇矢
もの言はぬシオカラトンボの羽根のなかひみつの模様はひそかにあるや 同
ぬばたまの夜塾の窓を開くとき講師の白シャツわづかにぼける     同

みずみずしい詩情漂う3首である。不可思議な雰囲気をまとった猫なのであろう。瞳を見つめれば異次元空間へと誘う引力を持っているのか。宮﨑駿ワールドに足を踏み入れる感じがする。次に2首目。シオカラトンボの腹部の美しい青色に惹かれる人も多かろう。昆虫なので「羽根」は「翅」と表記したほうがふさわしいかもしれない。ごく薄い翅に描かれた迷路のような模様に、神が戯れのように秘密の地図を忍び込ませているとしたら……考えるだけでも楽しいことである。3首目は、淡く静かに映像が立ち上がる。柔らかい感性の光る歌だと思う。
近藤寿美子さんが、現代短歌社賞に入選され、歌集『桜蘂』を上梓された。おめでとうございます。心に深く響く歌がきゅんと閉じ籠められた第一歌集である。

影もたぬ兄がいもうとと分け頒けあへるさくらドロップ溶けて薄やみ
まだ這はぬいのちひとつを失ひきわれが産みたるいのちひとつを
とんぼ追ふ少年に曳く影はなく網をもつ手に見覚えがある

いとけないわが子を失った悲嘆が、消えることのない濃い影となって作者に抱え込まれていることを感じさせる歌である。〈伝言がすこし歪んでゆくやうに今日のわたしはどこかが違ふ〉この歌のように、作者はどんな小さな違和感をも注視する人である。喪失の辛い体験は、自身の見つめる違和感の翳りを、一層、濃密にしたかも知れない。そして、そうした感覚に身を委ねることは、ともすれば深い淵へとのみ込まれるものであったかも知れない。けれど、少しばかりずれた軸を見出すことが、ほんのちょっと新しい視点を作者に与え、救いへとつながる一歩を踏み出すことを可能とした側面を持ったのではないか。そうであってほしいとの願いを込めて、私は思う。
作者はまた、繊細な表現で歌を紡ぐ人でもある。

はなびらの薄きにほそきほそき脚のせむと蝶のためらひは見ゆ
白昼を眠りつづける街灯のまばたきしつつ覚むるゆふぐれ
朝までにパンジーは雪に沈むでせうしんしんとして清らかな遺棄

薄皮を一枚一枚丁寧に剥してゆくようにして本質にたどりつく作者ならではの歌の世界が広がる。言葉の選び方、場面の切り取り方は、ほんとうに美しい。
病気と戦われた作者のご健康を願い、これからも胸が震えるすばらしい歌を届けてくださることを信じてやまない。

歌評(月2回更新)

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