2021年3月1日(吉村実紀恵)

先日「世界ふしぎ発見!」を見ていたら、「日本のカッパドキア」として、横浜にある田谷の洞窟が紹介されていた。以前から洞窟の存在は知っていたが、あの小さなお寺の裏山にそんな一大地底伽藍が秘められていたとは、想像もしなかった。番組を見た数日後には、さっそく足を運んでいた。

「田谷の洞窟」は通称で、正式名称を「定泉寺田谷山瑜伽洞」と言う。全長570メートル、三層構造の人工洞窟は、真言密教の修行の場として、鎌倉時代以降の修行僧らが片手にノミをふるって堀り進めた。壁面には今も無数のノミの堀跡が生々しく残っている。

洞内にはいくつもの水が流れており、時おり聞こえる水音が、静謐さをいっそう強調する。仏殿を模した大小のドーム状空間が左右上下に延びる通路でつながれており、行者道と呼ばれる順路に沿って拝観する。壁面や天井に手燭をかざすと、次々と浮かび上がる如来、羅漢、曼荼羅、梵字。壁面に四大明王を刻んだ通路から修行道場へ至る空間などは、地中海にある地底神殿のごとくである。一方で「四国八十八カ所」など全国百八十八札所を一手に集めた石彫群もあり、江戸時代の庶民信仰を色濃く留めている。

約30分の巡拝を終えて入口に戻ってくると、空はいっそうまぶしく、鳥のさえずりはいっそう賑やかである。仏の胎内で森羅万象を巡り、再び人間の世界に押し戻されたような感覚だ。一過性のものだろうが、世界の見え方が少し変わったという感じがあった。

今般のパンデミックは、社会のさまざまな問題をあぶり出し、それまで当然のものだった物の見方の枠組みを破壊した。働き方、人とのつながり、今後の人生設計まで、多くの人が価値転換を余儀なくされた。疫病が流行したあとには、大変革が起こる。ルネサンスがその例だ。

だがコロナ禍がもたらしたパラダイムシフトは、外的世界だけのものではない。瑜伽洞内に大小さまざまな趣向の部屋があり、それぞれが通路でつながれていたように、私たちの心にも通路でつながれたいくつもの部屋が存在する。各部屋へ通じる通路は開いたり閉じたりしていて、中にはずっと開かずの間になっているのもある。それが何かの拍子に押し開かれると、個人の内的世界におけるパラダイムシフトが起こる。コロナの世界的流行には、まさしくそれだけの威力があった。

結社誌3月号より。

人間の浅ましさとか本質をコロナは徐々に暴いてきたり   坂神誠

この一年、コロナ禍を詠んだ歌が誌上にあふれている。感染拡大の不安、収束への願い、会いたい人に会えないもどかしさ、など。だが掲出歌のように、コロナが人間にもたらしたもの、コロナを経験した自分の心と照らし合わせて、出来事の本質に迫ったような歌は少なかったように思える。それゆえ、単刀直入な詠いぶりながらこの歌に目が留まった。作者には、さらにここからの展開が待たれる。

コロナ禍で逢いに行けない年の暮れ我を詠えと導き説く師は  中嶋せつ子

巣ごもり生活が続けば、否応なしに自分と向き合う時間が増える。コロナうつとか巣ごもりうつとか言われるのは、そのためでもあろう。一年にわたる「歴史的非常事態」を経た今、歌においてはそれを経験した社会を見つめ、その社会と密接にかかわって生きる己が心を掘り下げる時期に来ている。作者の師が説いたのはそういうことであろう。

出歩くは悪事のごとく息ひそめ私は居ます私は居ません   仙田まゆみ

自粛警察、などと呼ばれ、互いが互いを監視する。だがこの風潮は、もともと人間の内奥に巣くっていた一面が、コロナによってあぶり出されたに過ぎない。「私は居ます私は居ません」の悲壮感漂うリフレインは、他者の視線から己の存在を守ろうとする心と、消そうとする心のせめぎ合いである。そして出歩くことを悪事のごとく責める人もまた、そうすることで自己の存在意義を守ろうとしている。ただそうとは気づいていないだけである。パンデミックがある程度の収束を迎えた時に、ようやく人は自分の心に問いかけるだけの余裕を持てるのだろうか。パラダイムシフトを経た私たちの前には、どんな地平が広がっているのだろうか。長引く在宅勤務に鬱々とする一方で、私はその新しい景色を見ることを楽しみにしてもいる。

歌評(月2回更新)

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