2016年11月15日(大沢優子)
12月11日まで、群馬県立土屋文明記念文学館で開かれている、「角田柳作とドナルド・キーン」展に行ってきた。角田柳作は明治10年、群馬県勢多郡津久田村に生まれ、のちにアメリカに渡り、コロンビア大学でドナルド・キーンをはじめとする多くの日本学研究者を育てたことで知られる。角田は成績優秀、とりわけ英語が得意で、父親代わりの兄が、学問で身を立てられるよう、上級校への進学を後押ししてくれたのだが、この地で英語教育が熱心だったという年譜の記事を読みながら、横浜から上州に続く「絹の道」が山村にも開明的な風を呼び入れた時代をリアルに感じた。
結社誌11月号から
わが死後に無花果を食ふ口ひらきしんしんと紫に染まらむ 神谷由希
暗澹として美しい歌である。あり得ない情景にもかかわらず、鮮明な像をむすぶ。「無花果」は、生者を凌ごうとする死者への供物であり、そのたくわえる力の象徴と思われる。死者の命という矛盾が、生者を縁取る影を際立たせる。
午後四時にシャッター下ろす古本屋「二十歳の原点」今日も棚ざらし もりき 萌
二十歳の原点が『』に括られていないところに、作者の意図があろう。挫折感の末、鉄道自殺を遂げた高野悦子の日記は、全共闘世代の青春の象徴として記憶されている。独りであること、未熟であることを二十歳の原点とした女学生のひたむきな思いは、今、棚ざらしのまま振り向かれず、古書そのものが売れず午後四時には閉店してしまう店の現状。作者自身が遠い未完の青春を見はるかし、かすかな傷みが伝わる。狙いが見えすぎるところが気になるといえようか。
母の目をぬすむならねど水曜日たれも居ぬ間に書くねがひあり 川野睦弘
罫線にそひて書かむと書く文字のなにゆゑゆがむ退職願 同
ピニャコラーダスムージーなどのみながらまたよみかへす退職願 同
「退職願」というタイトルの一連、現代の若者の生きにくさがひしひしと伝わってくる。母の思いをわかっていればこそ、辛さを直接伝えられない。だが今の職場で働きつづけることは出来ない、と一人書く退職願。ブラックな職場、あるいはパワハラなどが透けて見える。「ねがひ」は「希望」にも通じるのに、役所言葉「願い」は何とかけ離れていることかと思う。ピニャコラーダスムージーは、トロピカルな味わいが、この状況では皮肉だ。ファンタジー小説の女主人公も意識しているのだろうか。闘う王女ピニャ・コ・ラーダの葛藤と職を退く青年の現実とが、離れているようで、ひりひりした繋がりがある。
亡き兄の眠れる寺の大いなるいちやうは瀑布のしずけさに立つ 蟹江香代
わが生るる前に逝きたるとふ兄の名前いまだに知らざりわれは 同
おとうとの五十回忌はおとうとを語るひとなし知る人も亡し 古谷智子
聡くして一徹すぎるまなざしに死をば問はれき二十歳のわれは 同
両者とも、遠い日に夭折した兄や弟を詠っている。蟹江氏の兄は、作者の記憶にはない人であるが、年々の供養のなかで、大公孫樹のように神秘的に甦る。
古谷氏の弟はいつまでも若き日のまま、作者の純粋性を問う標として心に立ち現れる。早すぎる死者たちは純粋な悲哀として、生きている者の時間に添いながら、歩みつづけるのだろう。
『短歌研究』11月号、梅内美華子氏の「ドラゴンブルー」より
カーキ色のスカート揺らし秋に入る置きてそ歎く虫のなきがら 梅内美華子
「置きてそ歎く」からは、春秋の優劣を詠んだ額田王の長歌が直ちに想起される。歎くのが「青い枝」ではなく、「虫のなきがら」であるのが面白い。秋の始まりが軽く詠われている。
洒落たもの「シャンだね」と言ひし父逝けり一つ残して帽子を捨てる 同
旧制高校の学生言葉「シャン」を使うような父には、いかにも帽子が似合う。それだけで在りし日の父の時代が、たたずまいが、目に浮かぶ。
暗闇に鍾乳石はつららなす地上の世から裏返つたやうに 同
鍾乳洞の雫に濡れてああここは父のたましひが立ち寄るところ 同
奥多摩の日原鍾乳洞の歌も陰影の深い歌である。詩人氷見敦子の絶筆<日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りていく>と交錯しながら、「最終的な場所」へ降りてゆく感覚が読み手にも伝わり、命の在り処を深く問う。