2011年10月15日(大沢優子)
「歌を詠むというのは、禁忌に触れることです」。菊池裕さんの声だった。ローカルテレビの中で発せられた「きんき」という言葉が、九月のまだ目覚めきっていない私の頭に響いた。が、その口調は、女性詩人(うら若い、美しい)を相手にとても優しげであった。
結社誌10月号から、まず菊池さんの作品をみてみよう。
其処此処にあるてふことの不可思議な肉体関係各位に捧ぐ 菊池 裕
言葉の続け柄から生れた歌の妙といえようか。「関係各位」という、くっきりしているようで、不可思議なことばを基点に、「肉体」「捧ぐ」という言葉が接続される。途端に、事務的な剛の言葉が、いささかの笑いを伴う柔の世界へと変容する。言葉の力で、既定の世界を新しく読み変えていくことが、菊池さんの作歌の姿勢であろう。
同じく結社誌10月号から
大き蛾をたたきて殺しし掌の膚(はだえ)は熱く生気帯びたり 岡田眞木子
強い調子の一首である。日常生活のなかでしばしば経験することであるが、思いがけず自らの血の熱さに気付く瞬間がある。昂ぶりの感覚の名残に生気がやどる。命との格闘を詠み、体育会系の歌と言ってもよいかもしれない。
入院てふ常と異なる身づくろひに鸚哥二羽籠に辿りさめきて 水上令夫
「鸚哥」はインコ、「籠」は「こ」、「辿る」は途方にくれる、「さめく」はざわざわする、の意であろうか。入院準備の緊張感を、飼っているインコたちが察知して、籠の中で落ち着かない。古語を駆使する水上さんの歌は、意味を直ちに受け取ることが難しいこともあるのだが、歌の世界が口語へと大きく傾きつつある今、「鳥啼き魚の目は泪」の文人的な詩の手法は格調があり、懐かしい。
総合誌は、 角川短歌10月号より
天をさし一羽が嘴かすか開く鵞鳥のこゑをわれはしらぬを 日高堯子
密教のみどりの闇のしたたれる身体(からだ)にて出づ真夏の庭に 同
仏たちをのせたる孔雀、目のまろき水牛にはるか触れゆくわれは 同
「夏日」30首より引いた。先ずは、連作の配列の妙味に納得させられた。国立博物館で観た「空海と密教美術展」の曼荼羅の胎に自由に出で入りながら、夏の生家のひんやりとした佇まい、遠い家族の記憶が綴られて、「涼しいこころ」が立ち来る歌世界であった。
晩夏光ますぐに君を貫きて骨なき部位の輪郭顕たす 大谷雅彦
やわらかな言葉運びがみずみずしい相聞の歌である。
夏の歌を読むころは夏は遠ざかり、そのさなかにある時よりも思いが満ちてくる。