2012年9月1日(神谷 由希)
今日から九月。九月一日は防災の日、富山のおわら風の盆に当たり、三日には迢空忌、七日の鏡花忌と仲秋に入ってゆく。それにしても今年の夏は長かったが、白露の時節、心静かに歌を詠むのによい気候であることを切に願う。まず結社誌八月号から。
わが庭に小便をしてゆく猫が〈ニャシタモクルニャ〉と云ひ捨てにけり 長谷川と茂古
世には猫語がわかるという人が大勢いる。特に歌人には。但し猫は、人間の言うことを理解しないふり(・・)をする。うっかり理解したと思われようものなら、人間に都合よく使われて終うと、賢くも思い定めているらしい。植栽の為、手入れした庭などは猫共にとって格好のトイレとなるが、「小便」とは? 尿(しと)なる古語もあるが、作者としては腹立ち半分、それこそ云い捨てたかったのだろう。
部屋ぬちに母の声亡しペン皿にトンボ鉛筆飛びたちさうな 和田 悦子
四十年独りの母の日記帳機密文書のごとくしづもる 同
母喰鳥(ははくひ)と呼ばふ冬の季ふくろふの鋭き嘴(はし)に母は喰はれし 同
四十年独り暮らしをされた亡き母への、強い追慕の思いが伝わって来る一連の歌。ペン皿の鉛筆は、今にも母の手が触れて動き出しそうだ。続く二首目、「機密文書のごとく」と巧みに形容されている日記帳の厚みが、長い歳月の重さを故人の人柄と共に感じさせる。梟の異名をとりいれた三首目は少しどきっとさせられるが、作者の悲哀を「鋭き嘴に母は喰はれし」の表現で、直截に詠っている。
新緑の風を見ている猫といてぱかりぱかりと空豆をむく 岡田眞木子
猫派としてはどうしても猫の歌に目がいく。猫の手も借りたい程の忙しさでなく、のんびりと庭を見ている猫の傍らに、なれた手つきで空豆をむく作者。「ぱかりぱかり」が両者の表情を見せて楽しい。
丘の上の桜並木の奥にある知る人少なき愛知少年院 山村 博保
少年院少人数の卒業式に祝辞読みにき顔は上げずに 同
刺青して小指短き少年は規律正しく式に臨みぬ 同
院生の詩集「肩車」に共感せりどの少年も捨てられし子ぞ 同
鉄条網張り巡らせる少年院静寂の中を残花散りゆく 同
重い〈何か〉を心に刻む歌である。作者はこの少年院と深い関わりを持ち、院での職を退いた後、卒業式に招かれたのであろう。様々な思いが胸を去来して、「顔は上げずに」祝辞を読む。養護施設や、少年院などは地域から建設を反対される事も多いと聞く。恐らくは「知る人少なく」ひっそりと存在しているのかと思う。それが、人々の愛でる桜並木の奥にあるという現実との対比。肉親に捨てられ、指詰め迄するような境遇にあった少年たちの詩集が「肩車」というのは余りにも哀しい。規律と教化の日々、作者も少年たちも散る花にどんな思いを持っていたのだろうか。少年院といえば、春日井建先生に有名な次の一首がある。
われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり 『未青年』
院内から少年たちを見た作者の眼とちがい、ここには彼等の無頼、奔放を羨む少年のまなざしがある。子供時代、放任されるが故にのびのびと遊び廻り、自由気儘にふるまう友達を見て、羨ましく思ったりしなかったか。躾のきびしい良家の秘蔵っ子であればこそ、ひとしれずその思いは「熱」かったかも知れない。
静かなるブーム散骨(はかなげに水に溶けゆく人を愛した) 山下 浩一
墓碑の無き国を想えり 草原を撫でながらゆく風のみち見ゆ 同
葬送のあり方も近来大きく変わって来た。〈具者一所〉と言う仏語のように、近親縁者と共にふるさとの土に還りたい願望も、核家族化、墓地不足など、種々の要因によって形を変えつつある。一首目は、今散骨される人を想っての歌かもしれない。多分海(後述にプーケットが出てくるので)の深みに、消えてゆく遺骨と共に、もろもろの想いも又、溶け去ってしまう。そのはかなさは、作者自身の心の在り様でもある。
「中部短歌」は今年、九十周年を迎えた。この記念すべき年に、同人の中畑智江さんが中城ふみ子賞大賞を受賞。前回にも書かれていましたが、おめでとうございます。
続けて「歌壇」九月号より。
特集=アラ卒歌人のうた――今、高齢歌人は何をうたっているか――に少々驚いた。アラ・・・もここ迄来たか。伊藤一彦氏の評によれば、歌いたい欲求にあふれている歌、「誰に見せるためでもない、自分自身が見るために作っている歌」であると言う。出版界も「アラウンド90」の出版ラッシュに湧いているらしい。多くのカルチャー講座や、投稿欄に出詠された作品から、
ひたむきに短歌をひねる老女らをいとしと思う 吾も老女なり 92才
ふと自らの老いを意識した時、周囲にいる人たちの方がずっと若いのではないだろうか。
己が身を案じてくれる彼女たち話してみれば人の妻なり 92才
夢枕に会いに来にけり昔の彼氏あんまり多くて誰とわからず 97才
誰もがふたたび青春して楽しんでいる。どこか切なく、そして明るい。
九十歳の先は幾歳(いくつ)でもいいやうなお天気の中花が咲くなり
斎藤 史『風翩翻以後』