2019年1月15日(雲嶋聆)
炎上という言葉がある。もともとは火災などで建物等が火に包まれる様を表した語だが、そこから派生して最近は「不祥事の発覚や失言・暴言などとインターネット上に判断されたことをきっかけに、非難・批判が殺到して、収拾が付かなくなっている事態や状況を指す」(Wikipedia)という意味のネット用語として定着している。
ツイッターのタイムラインを眺めていると、報道された事実の一部や、その事実や人物に対する印象のみを根拠に、当事者でもなければ当事者と交流があるわけでもない第三者による悪意溢れるコメントが見られ、気が重くなることもしばしばである。そんな火種にも似たコメントの数々を風刺したような歌を結社誌1月号に見つけ、気が重くなっているのは自分だけではなかったと少し心が晴れるような気分になった。
事実だけ報道されて余白にはみな好き好きに描くいきさつ 淀美佑子
この一首はツイッター等のSNSに限らず、何かしら報道された事実に対する人々の反応を詠んだものといえる。事実に対する第三者的な人々によって描かれる物語は、「好き好きに」と詠まれているようにどうしても恣意的にならざるをえず、そうやって描かれた物語や噂に乗っかって、当事者以外がみだりに憶測や非難をするのは無責任で嫌なことだと思う。
炎上といえば、昨年は歌壇・文壇でいくつかセクハラの話が炎上していた。
「セクハラよ」翅を撫づれば青き眸(め)を尖らせており冬の蟷螂 三枝貞代
寒空の下、一匹のカマキリがゆらゆらと体を左右に揺らしながらカマを構えている。おそらく緑色に透きとおった美しい翅をしていたのだろう、作者は思わず手を伸ばしてその翅を撫でた。するとカマキリはびくっと威嚇するように眼を剥きカマを振り上げてきた。このとき、作者の敏感な耳がカマキリの微かな、しかし凛とした「セクハラよ」という声を捉えたのである。そんな情景が、一読、瞼の裏に浮かぶ。作者としてはただカマキリの美しさを愛でようとしただけかもしれない、けれども作者にとってのちょっとした出来心がカマキリには生涯の傷になるかもしれない嫌がらせと感じられたのである。初句の唐突感が初句切れと相俟って、作者の意識の流れに突如として投げ込まれた異物の役割を果たしている。この異物によって生じた波紋は、そのまま読者の意識にも伝播して、作者のハッとなる感覚を読者に追体験させる効果を生んでいる。また四句目の「尖らせており」も、カマキリの眼の形状と初句の台詞から想起されるカマキリの心情とを同時に表現する言葉選びで、的確だと思った。
1月号にはカマキリと同じ直翅目に分類されるスズムシを詠んだ歌もあった。
悲しみの終止符ならむ鈴虫のリンと一声鳴きて止みぬる 水野恭子
結句の連帯止めは上句と下句の倒置によるものだが、スズムシの鳴き止んだ後の真っ暗な時間の継続を表しているような静かな余韻を残している。初句の「悲しみ」という語と響きあって、それはどこか泣いた後の気分に通じるものである。作者はスズムシの鳴いている間、ずっと何かしらの悲しみを抱えていたのかもしれない。「終止符ならむ」の「む」は推量の助動詞だが、スズムシの鳴き止むのを契機として悲しみに浸る時間を終えようとする意志の意味も、そこはかとなく纏っているように感じられる。
ところで、昨年11月末刊行の本になるが、谷岡亜紀『言葉の位相 詩歌と言葉の謎をめぐって』(角川書店)を読んで感銘を受けた。
中でも第一部の「言葉の位相」は、方言の話や現在のいわゆる口語の起源である戦後の国語改革について、あるいは短歌における文語や口語の文法の話、二物衝突の起源である映像のモンタージュ理論の話等、興味深い話題がコラム形式で次々と提示され、とても刺激的だった。たとえばモンタージュ理論について、その理論の提唱者であるエイゼンシュタインの言葉を引きながら谷岡は以下のように記す。
モンタージュとは、異なるものどうしの衝突・対立・葛藤とその相乗によって生成される「全く新しい認識=思想」である。(略)エイゼンシュタインは自らのモンタージュ理論を〈映画の弁証法〉と呼んだ。
異なる物同士の衝突による弁証法的な「新しい認識」の表現を理想とする著者の短歌論は自分にとってはとても印象的だった。