2020年2月15日(大沢優子)

コロナウイルスの感染が日々のニュースの中心となっている。ウイルスという微小なものが、生活の基盤を大きく揺るがせているのは、何か、人の日常の脆弱さを見せられている気がしてくる。早い終息を願っている。
2月号の結社誌は、創刊月の記念として恒例の10首詠特集、一人ひとりの作品に読み応えがある。

遠つ世の女神ひとたび映したる鏡秘められ日輪(ひかり)見るなし  大塚寅彦
いま薙ぐはいかなる草ぞ聖剣を祀りし宮に朝陽さす見ゆ         同
みかづきは紅き瑪瑙の色なして勾玉めけり西方のそら          同
竹槍の裔(すゑ)のたけのこ甘く煮て飢ゑ知らぬわが胃の腑に落とす   同

三種の神器それぞれが詠みこまれた三首、このテーマにどのようなアプローチをするか、興味を惹かれるところだが、軽快に若々しく詠われていて、ファンタジーを読むような印象が残る。

第1首、「ひとたび」の限定が効果的だ。若き女神がただ一度、自らを映したまま外界より封じられた鏡裏の像は、永遠の若さの秘密をもつようで、閉ざされている故にあこがれを呼ぶ。

第2首、「聖剣」が神話ファンタジーの主人公、こちらは少年の像として想像される。結句の「朝陽さす見ゆ」という、古歌の定番表現が、物語にしっくりとした落ち着きを与えている。第1首で「見るなし」とした結句は、第2首では「見ゆ」と連関する言葉が用いられ、「見る」という行為にある、人の衝動が交錯していて、連作としての面白さがある。

第3首、神器の最後の勾玉は月の譬喩として登場する。勾玉はよく胎児の姿などにたとえられるので、譬喩で表現されることは、前例に則っているのだが、瑪瑙の色に血潮が想像され、不吉でもある。
神話ファンタジー3首は、場面の切り取り方がよく、若々しい物語となった。

第4首、ファンタジーから一転し「竹槍」という庶民の武器からの発想の歌は、個人の食の実感がリアルに詠まれている。竹槍世代の裔であるわれは「飢ゑ知らぬ」と言いながら、竹の子の甘さを味わう自らに、どこか生の不全感が漂う。対する硬直した「父」の像が見え隠れして面白い。
時空を自由に超えて詠いながら、清新さのなかに、リアルな感情も揺曳するのが魅力的な一連である。

稲株はスタートラインに並ぶごと点火されては競いて燃ゆる  大谷宣子
しっかりと決断下す友であり明日より生くと眼差し強し      同

最近は、野焼きに厳しい規制があり、なかなか見ることが出来ないのだが、作者の住む福島県白河周辺の刈田では今も受け継がれ、刈田の稲藁を燃やして、来年の農作業のための土壌再生を図っているらしい。「村の風物詩」であると作者は詠んでいる。
同時に、友人が離婚され、新しい人生を踏みだされたことにエールを送る歌も並んでいる。ともに再生への希望が「スタートライン」という言葉選びから感じられた。

大業も道半ばにて止められぬかりそめならぬ銃撃を受け  杉本直規
十代に胸をこがせし言葉あり「ボーイズビーアンビシャス」欠片もあらず 同
追うという元気なけれど待つという姿も少しは前向きならむ  同

作者の心理の動きが手に取るようにわかる一連である。市井に普通に生きるわれわれが自分の人生を振り返って抱く、大方の感慨に近いと思えるからである。 
アフガンのために身命をなげうって尽くした中村哲医師に深い敬意を捧げつつも、誰もがそのような人生を送ることはできない。若い時の大志は、夢のみで終わることも多い。けれども、じっくり物事を見極めたり、忍耐したりという「待つ」姿勢は、多くの経験を経てきて人が身につけることが出来る時間からの賜物なのだろう。この1首があることによって、一連が生きた。

最近出版されたばかりの歌集『赤方偏移』(2020.2.16刊、本阿弥書店)を頂いた。著者は、「かりん」所属の山内活良氏、第一歌集である。お名前も歌集名も角ばった印象だが、作品は透明で爽やかな読後感を残す。歌集のタイトルは初めて聞く言葉だが、天文学用語という。
宇宙への関心は少年の頃よりとのこと、その関心が窺われる歌も多い。

ひとは皆遠ざかる星一様に赤方偏移のスペクトルを持つ
解けぬ謎であって欲しい生命は闇から生まれ闇へ退く
乗るべきか乗らざるべきかこの頃はわが家に銀河鉄道が着く

宇宙を思うとき、その無窮の果てに惹かれながらも、どこか言い知れぬ寂しさも感じる。銀河鉄道がずっと愛する人と一緒には行けない乗り物と知ったからだろうか?
作者のもう一つの大きなモチーフは、十四歳で自死された娘さんへの思いだ。

自死したる娘に捧げし花一輪いちりんほどの羨望添えて
捨て犬に好きな男の子の名を遺し十四歳で吾子は逝きたり
パスワード知り得ぬ悔恨遺書もなく逝きし娘の裡なるファイル
子の墓に花供えつつ馬鹿な子と妻は呟く いつもつぶやく

娘さん自身は、すでに親の知らない思いを抱えて思春期を迎えていたのだが、若くして亡くなった娘は、いつまでも純粋に我が子という存在であり続けるのだと思う。

妻を詠んだ歌や、退職の悲哀が伝わる歌も心に残った。

「好きですと言ったつもりよ」手話講座初日の妻の慣れない手ぶり
悪ふざけと思えぬ所業おやじ臭消すためと妻が噴くファブリーズ
不可思議な終幕背に拍手浴びて追われるごとく事務所を出たり

悲しいこと、嬉しいことを広げすぎることなく、自己の内包する世界として提示されていて清潔感のある歌集と思った。

歌評(月2回更新)

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