2017年3月15日(三枝 貞代)

まずは結社誌「短歌」3月号より。

「古典と猫」講ずる人の力入ればチョークの粉の降りかかり来る   大沢 優子

「古典と猫」の一連のなかの一首目の歌。四首目に柏木の名があり、五首目には唐渡り猫が登場しているのでこの古典は『源氏物語』であろうと思う。今から約1000年前(平安時代1004年~1011年頃)、紫式部によって書かれた日本が世界に誇る有名な文学作品『源氏物語』は、全五十四帖にも及ぶ壮大な大長編である。宮廷を中心として繰り広げられる、主人公光源氏の生涯と光源氏の子である薫(柏木と、女三の宮の不義の子である)、そして光源氏をとりまく人々の物語である。その第三十四帖「若菜上」に唐猫の引き起こす事件が書かれていて、物語を大きく展開させている。まさにこのハプニングの起きた場面に進んだときの講師の熱の入れようを、臨場感たっぷりに詠まれているのではないだろうか。チョークの粉が飛び散るほどに興奮する、熱意溢れる講師の人物像が立ち上がってくる。そんな講師を冷静に、また微笑ましく受け止めている作者である。結句「降りかかり来る」のややオーバーな表現から講義を受ける作者の喜びを感じることができる。

ピストルもナイフも足は踏みあてずたはむるるがに渚へいそぐ   川野 睦弘

タイトル「初日の出」の連作から引く。一首目に〈砂山の夜のひきあけの藍のいろ時のうつるにつれて褪めゆく〉と詠まれているので、二首目におかれた掲出歌は、砂山をたわむれるように渚へと歩いているとわかる。ここに出てくる「ピストル」は石川啄木の歌集『一握の砂』の中の次の一首を連想させる。

いたく錆びしピストル出でぬ砂山の砂を指もて掘りてありしに    石川 啄木

そして「ナイフ」は1958年に発売された石原裕次郎の歌謡曲に出てくるジャックナイフ(作詞 萩原四朗  作曲 上原賢六  曲名 「錆びたナイフ」)。
〈砂山の砂を指で掘ってたらまっかに錆びたジャックナイフが出て来たよ〉という歌詞が一番目に登場している。啄木の歌を愛唱していた作詞家の萩原四朗がこの啄木の歌からヒントを得て、ピストルをナイフに置き換えて作詞したと言われている。砂山を踏みしめる作者の靴底は、踏みあてずとあるから、ピストルもナイフも見つけることはできなかった。ということは、作者はまだ自分には、そんな錆びたピストルやナイフをさぐり当てるほどの力はない。自分は啄木や裕次郎からするとまだまだ未熟者で、人に驚異(ワンダー)を感じさせる表現は出来ない。そんな作者の心情を汲み取ってしまうのだが、この解釈はまったく的外れであろうか。新年を迎えて時の流れをしみじみ思う作者は、波乱の生活を送り最期には肺結核を患い26歳という若さでこの世を去った啄木が脳裏に浮かんだのかもしれない。このピストルとナイフにはさまざまな想像を掻き立てられる。初日を拝むために歩く胸には、自分を信じて疑わない希望が溢れているように感じられる。なぜなら、たはむるるがにとあるからだ。おどけていられるのは心に余裕があるからではないだろうか。いや、自身を鼓舞している行為であろうか。作者のその胸の奥底にある秘めた情熱と心情に私は思いを馳せる。

かたくなな骨きしませて駆け足で進む秒針 冬枯れの森     紀水 章生

作者の感受性が光る一首である。時を刻む秒針を表現するために、初句から三句目までの比喩が独創的ではっとなった。一秒たりとも待ってくれない秒針は、スムーズには進まず、カクカクと刻んでゆく。私にはとても思いつかない斬新な比喩表現は作者の詩的感覚によるものだろう。結句「冬枯れの森」は実景であろうか。それとも今秒針の進む時計の文字盤を指しているのだろうか。読み手は色々と物語を膨らませて楽しむことができる。上句の秒針という小さなものと、下句の森という大きなものの対比が効いていて、詩情ある作品である。

母牛と仔牛がもっそり立ち上がる伏しいし草も起き上がりたり  宮沢  実

富士の裾野に開拓された牧場を訪れた時の一首であろう。親子の牛を眺める作者の眼差しはとても優しい。母牛が立ち上がると、続いて仔牛も離れないように立ち上がった。もっそりという表現は、牛が立ち上がる時の動きにぴったりである。親子の牛が休んでいた場所の草は倒れていたのだが、牛が立ち上がるとその伏せていた草まで起き上がったという、のどかな光景のなかに発見がある。作者の温かい眼差しは親子の牛だけではなく、踏まれていた草にも注がれていて、平易な表現のなかから情景が立ち上がってくる。私の好きな作品である。

結社誌3月号には2016年11月上梓された、もりき萌さんの歌集『手にとると消えそうな歌』の書評特集が組まれ、「コスモス短歌会」選者の小島ゆかり氏、また大先輩の大澤澄子氏 そして六名の仲間からの一首鑑賞が寄せられている。小島ゆかり氏の書評タイトル「金のクレヨン」には冒頭と締めくくりの歌に次の一首をあげている。 

さくらばな散るたび思う幼日のついに使わざりし金のクレヨン   もりき 萌

この一首は大澤澄子氏も取り上げている歌だ。小島ゆかり氏は書評のなかでこう記している。「もりき萌さんは、日々を生きることに苦しみながら、日々を生きることの豊かさを強く希求している。しかも、表現という切崖で言葉の力を信じて立つ、詩人としての潔さをもって。」そしてこう結んでいる。「一冊をくり返し読みながらわたしは何度もこの歌に返った。そして歌集『手にとると消えそうな歌』のために、もりき萌さんは初めて金のクレヨンを使ったのではないか・・・ そう思った。」と。

また、大澤澄子氏の締めくくりの言葉も記しておきたい。「読み終えて、一冊の始まりに感じた鮮度が長い時を経ているのに、最後まで失われずにいる事に感動をおぼえる。あとがきに〈消えそうで消えない歌と生命〉を残りの人生をかけて詠んでいきたいと思うと、もりき萌は結ぶ。その言葉に元気付けられるのである。多くの読者の、目に見えない思いが彼女の心身を癒してくれるようにと願ってやまない。」

大塚寅彦代表の解説の言葉からは、作者に注ぐ優しさが直に伝わってくる。共に短歌を学ぶ同志への深い愛情であり、また師として作者をしっかりと見据えその人物像を確かに私たちに伝えてくれている。もりき萌さんの溢れるほど豊かな感性で詠まれた歌集『手にとると消えそうな歌』は、いつも私のそばにある。

観覧車ゆっくりまわれ それぞれの景色見ている母と娘に
堤防の河津桜は目薬の一滴の海に霞みいるかな
線路沿いを歩くとそっとついてくる少女の頃に飛ばしたような月
じゅうじゅうとさんまを焼けば還りくる父どっしりと在りし夕ぐれ
ずんとくる手ごたえ竿を引き抜きぬ鮎と一緒に躍り出る夏

最後に総合誌は角川「短歌」3月号より。

第8回 角川全国短歌大賞 が発表されている。平成28年5月25日~9月30日まで募集を行い、自由題4306首、題詠「書」1498首の中から受賞作品が決定した。
その大賞と準大賞の歌をここにあげさせていただく。

大賞〈自由題〉 

あのときの鶴ですなんて言ひながら誰か掃除に来てはくれぬか  志稲 裕子

〈題詠〉

大空に書かれた手紙まっすぐに生きればいいと秋の飛行機    清水 ゆん 

準大賞〈自由題〉

走るより歩いた方が早く着くような気がする虹の下まで     小橋 辰夫

「十六歳 夏」の四文字書き込んだ誰かと同じ本を読んでる   小林 理央

〈題詠〉

いろいろと書いてあるのだ 看護師の腕はメモ張なのだ     萩原慎一郎

賞に入った歌は、どの作品にもその作者の視点があり、気どりなく素直な表現である。
発見した対象に向き合う姿勢が真っすぐな点に魅かれた。具体を入れて詠まれているため、その情景が目に見えるようであり、作者の今がストレートに届いてくる。 

歌評(月2回更新)

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