2018年11月1日(吉村実紀恵)
をさなさははたかりそめの老いに似て春雪かづきゐたるわが髪
大塚 寅彦『刺青天使』
先月の中部短歌全国大会のシンポジウムでは、「老成の歌、老いの歌」をテーマとして活発な議論がなされた。古谷智子氏は「若い頃の死とは、観念である」と述べたが、その時私の脳裏に浮かんだのが冒頭の一首である。若さの只中に老いを、生の輝きのなかに死の兆しを感じる早熟な感性。青年期の危うい自意識に彩られた観念としての死は、誌的情緒をはらんでどこまでも美しい。
そして結社誌「短歌」10月号より、大塚代表の歌を。
スマホなる鬼火ともして若きらの彷徨ふ街か秋深き夜を 大塚 寅彦
ハロウィンの南瓜に変じゆかざるや独り身ただに深めゆく男(を)は 同
ジャック・オー・ランタン(ランタン持ちの男)は、地獄の入り口で悪魔からもらった火種をランタンに灯し、この世とあの世の境を彷徨っている。肌身離さずスマホを持ち歩く若者らの姿は、人生の指針をスマホにゆだねるがごとくである。先行き不透明な時代、スマホの灯りを頼りに漂うように生きる姿が、天国にも地獄にも行けないジャックの悲哀に重なる。
一方で、孤独の感情を突き詰めた果てに作者の心が共鳴したのは、あの南瓜の虚無的な笑みであるという。それはだぶん、年齢を重ねた歌人が獲得する諦観とも、達観とも違うものだ。冒頭の歌からすでに三十年以上経過し、死をもっと身近な現実のものとしてとらえ始めた今、それは一時的に陥る厭世なのだろうか。
今回は名古屋での全国大会に先立ち、三重県伊勢市の実家に帰省した。その折松阪まで足を延ばし、城下町の風情が残る松阪城周辺を散策した。松阪城二の丸跡には、本居宣長の旧宅「鈴屋」が一般公開されている。歌人としての評価はイマイチの宣長だが、その門流「鈴屋派」はすぐれた歌人を輩出したことで知られる。なかでも正岡子規に「歌人として実朝以降ただ一人なり」と絶賛されたのが、橘曙覧である。
その歌、『古今』『新古今』の陳套に堕ちず真淵、景樹の窠臼に陥らず、『万葉』を学んで『万葉』を脱し鎖事俗事を捕え来りて縦横に馳駆するところ、かえって高雅蒼老些の俗気を帯びず。ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆を攄くもの、もって識見高邁、凡俗に超越するところあるを見るに足る。 (正岡子規「曙覧の歌」)
橘曙覧は江戸末期、福井城下の紙商の家に生まれた。父親の死後いったんは家業を継いだものの、商売が性に合わず、異母弟に家督を譲って学問を志す。宣長の高弟田中大秀に私淑し、和歌と国学に打ち込んだ。市井の人でありながら、足羽山中腹に庵を結んで隠遁者のように歌道に邁進した曙覧は、つましい暮らしの中にささやかな幸せの種を見つける天才であった。
たのしみは朝おきいでで昨日まで無かりし花の咲ける見る時
たのしみはまれに魚烹て児等皆がうましうましといひて食ふ時
たのしみはそぞろ読みゆく書の中に我とひとしき人をみし時
橘曙覧『志濃夫廼舎歌集』の中に「独楽吟」と題して収録されている五十二首のうちから、特に私の好きな歌を引いた。なかでも一首目は平成6年、天皇皇后両陛下が訪米された折、クリントン大統領が歓迎スピーチにおいて引用したことで有名になった。橘曙覧という歌人の魅力が、異国の地から現代人に再発見されることになったのだ。平成6年といえば、バブルが崩壊し失われた20年へと突入する入口の時期にあたる。新しい価値観へのシフトを余儀なくされていた当時の人々にとって、日常の些事に幸福を見出すという独楽吟の世界は、自らを重ねやすいものとして歓迎されたことであろう。
だが独楽吟に流れる曙覧の人生観を読み解く上で、私がもっと惹かれ、かつ見過ごしてはならないと感じるのは、次のような歌である。
灯火のもとに夜な夜な来たれ鬼 我(わが)ひめ歌の限りきかせむ
人臭き人に聞(きか)する歌ならず鬼の夜ふけて来ばつげもせむ
「戯れに」と題して、自身の歌に対する矜持を詠んだ四首連作のうちの二首である。子規は、戯れになどと言ってはいるが「その裏面には実に万斛の涕涙を湛うるを見るなり」と述べている。独楽吟の素朴さ、邪心のなさ、何より苦労の中にも「たのしみ」を見つけ、超然と生きることのできる心の有り様とは、その裏で流した幾多の涙あってのものである。そうした自分の歌の真髄を理解できるのは、鬼のような人智を超えた存在でしかないと感じている。
ここには同時に、世俗を捨てる生き方を選んだ男の孤独がある。曙覧の歌を読んでいると、ハロウィンの南瓜の笑みに心を寄せる心理もまた、理解できるような気がするのである。