2021年1月1日(神谷由希)

事の多かった令和二年であったが、何より全世界を震撼させた<Covid 19>新型コロナウイルスの脅威が、一番であろう。今まで自由な外出と、それに伴う娯楽、清潔安全な家庭生活に慣れていた人々が、急転直下眼に見えぬ汚染におびえるようになってしまった。花見、観劇を初め、あらゆる集会が中止され、もちろん歌会も例外ではない。葬祭も侭ならぬとあって、人心に不安ばかりか不満があふれてくる。頼るべき国家、閣僚は時短の、自助のと騒ぐばかり、年が改まっても一向に変わらない。白蟻に荒らされた家のように、私たちの住む世界がこんなにも脆く、不安定なものとはっきり気付かされた昨年であった。テレワーク、オンラインと新しい風が吹く中、取り残されるアナログ族は、どう身を処したらよいのだろうか。

結社誌12月号より
どちらへと声掛けたれば向き直り「明るい方へ」と大まじめなり  杉本直規
現在の状況にぴったりなところが面白い。この後、ちょっとした掛け合いがあって、それも歌になっているが、今の時世では誰しも明るい方へ出たいと願うだろう。世界中にパンデミックの暗雲が立ち込めている今では。

謀(はかりごと)持たざる者を老人と呼ぶ背景に朝靄ふかき   山下浩一

この場合の謀とは何を指すのか。ある種の計画、あるいは目論見を持たない意とすると、私感によれば老人程心中に些細な企みをめぐらせている者はないと思う。それが取るに足らないものであっても、自分自身にとっては、老いに拮抗する重大事なのだ。ただ、この作品の場合は下の句に、<ふかき朝靄>があるので、作者の思うところがわかる気がする。

<スイマセン ワカリマセン>とスマホ言う「あやまらなくていいよ」と曾孫   鈴木淑子

スマホに替えようと説明を受けていると、必ず「若い方が傍におられますか?」と聞かれる。それが厭さに今でもガラケーだが、作者は曾孫さんもいらっしゃる年齢で、スマホを使いこなしていられる。A・Iの機械的な声で、人間的な応答をするスマホに、曾孫さんが答えている。現代的で楽しい場面と思った。

さて年の初めは、若手の精鋭 石川美南氏の近作『体内飛行』を取り上げてみた。同時に先ごろ八十六歳で逝去された石川不二子氏について述べて見たい。同じ姓というだけで何のつながりもないが、片や鋭い感覚で身体やその周辺を詠む若手、一方東京農工大農学部卒業後「心の花」に所属、家族や家畜の世話に追われながら、生活の現場を詠み続けた老練の歌人。まず石川不二子氏の歌

1. 睡蓮の円錐形の蕾浮く池にざぶざぶと鍬洗ふなり
2. 塩はゆき黒髪を噛む仔牛どもわが夫よりいたく優しく
3. のびあがりあかき罌粟咲く、身をせめて切なきことをわれは歌はぬ
4. 「スザンヌの水浴」にかかる光ありき嵐ならむとする空と木と
5. 鴫羂(しぎわな)にクジラさやるといふ歌をわが家族らは一人も知らぬ

石川美南氏の歌 『体内飛行より』

1. ミルハウザー カズオ・イシグロ オングーチェ 虹を端から飲むやうに読む
2. むかつきを収めむとして半身をバナナヨーグルトの雲海へ
3. ぴんとこない暗喩のやうに浮かびゐるエコー画像のできかけの人
4. 目を細め生まれておいで こちら側は汚くて眩しい世界だよ
5. うちの子の名前が決まるより早く周子さんがうちの子を歌に詠む

ここに挙げただけではよくわからないと思うが、両者には似たところがあるような気がする。環境も生活も時代も、全く違う二人であるが、身の回りの出来事や身体感覚について、細やか且つ新鮮な表現をするところ、石川美南氏の「胃袋姫」にあるように、食べることに真剣でまじめな所などが異なる文体の中より揺曳するのである。こうした読み方は不当かもしれないが、長い自粛生活の間、こんな楽しみ方もあるのではないか。

歌評(月2回更新)

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