2015年7月15日(紀水 章生)

まずは中部短歌六月号から…。個性的で、かつ歌空間の広がりを感じさせられる作品。

この星に生き難からん真紅なる血の色に咲くエンセラダスの薔薇 /清水美織

エンセラダスはギリシア神話に登場する巨人族。アテーナーと戦ったが、敵わないと思って敗走したところにシケリア島を投げつけられて倒された。(以上、ウィキペディアより) 薔薇の品種にそういう名のものがあるかどうかは知らないが、このエピソードを知った上で名付けられたとすると、真紅=血の色というイメージは頷ける。また神話は直接的ではないにしろ、現実の世界で実際に起きたことをベースに描いている可能性がある。エンセラダスにあたる人物、あるいは巨人族として描かれ、滅ぼされてしまった人々が、その時代にはいたのかもしれない。異質なものには常に排除される危険性があり生き難さにつながっている。

人形は人に似るほどいと怖し「マダムタッソー館」静かに眠れ /石井和子

「マダムタッソー館」は知らなかったが、有名人にそっくりな人形が展示されているらしい。世界の有名な政治家、スポーツ選手、アイドルなどでアトラクションを組んでいる。近年は美容整形などの技術が発達し、やわらかく自然に見える人工の皮膚なども生まれていて、美しい人形を作れるのだろう。

こうした技術の進歩によりロボットも人間そっくりの、しかも美形のものが作れるようになっている。以前、ロボット工学で最先端を進んでいる大阪大学の石黒浩氏のお話を伺った。いかにもロボットというような機械のようなロボットから、ふつうの人間に見えるような人間らしいロボットを生み出すまでの話がとても興味深かった。映像で見せられた直近のロボット(アンドロイド)の姿は美しく憂いを含む表情や仕草までこれがロボットなのかと思うほどよくできたものだった。実際に、高島屋で売り子をさせたり、外国ではアイドルとして踊って歌って人気がでたり…あるいは、亡くなった桂米朝さんの替え玉として落語をしたり…そういうことをこなせるレベルになっている。(もちろん製作費は高価だが…)その研究の過程でわかったことは、人間らしさが完全なものになるちょっと前の段階…ほとんど同じだが、ちょっとだけ異質なところがあるというレベルで「不気味の谷間」という現象がある。非常によくできているが、ほんの少し違和感があるというのはとても不気味で怖い感じになるのだという。実際に、そういうものも紹介されて見たが、なるほど…と納得した。「マダムタッソー館」の人形たちは非常に精巧にできていたとしても、動かないだろうし、動いたとしても人間らしくはなりにくいだろうから、「不気味の谷間」状態になるのかもしれない。

※1 石黒浩氏の研究室はここです。

http://www.geminoid.jp/ja/index.html

※2 桂米朝さんの替え玉の落語はここにあります。

http://withnews.jp/article/f0150319006qq000000000000000G0010401qq000011698A

人々を寄せるオーラの芯にしてこゑなき神代桜の千手 /古谷智子
マララたてる指一本日本の百年まへの少女のこころ  /古谷智子

神代桜とは山梨県の実相寺の「山高神代桜」のことだろうか。この桜は樹齢2000年とも言われており、2000年もの間、毎年、春には美しい花を咲かせ続けているのだ。ノーベル平和賞を受賞したマララさんがこの地を訪れたかどうかは知らないが、強さや生命力にあふれたその美しさに共通するところがあるのだろう。

*****

書肆侃侃房より、現代歌人シリーズ2として松村由利子氏の第四歌集「耳ふたひら」が刊行された。この歌集には美しく印象的な作品が多い。おりおりに作者自身の転換点と感られるような作品がある。そしてまたわたし自身が緑の木々に囲まれて暮らしているためか、深いところで理屈ではなく感覚的に直に心にふれてくるような作品がある。特に好きな作品、印象の強い作品を次にピックアップする。まずは台風の日の歌。

(引用歌はすべて松村由利子歌集「耳ふたひら」より)

眉太き風が西から吹いてくる嵐の前にパンを焼くべし
ティンパニも中に入れられ巨きなる奏者の連打聞くごとき夜
向かい合う私とあなた停電の夜の背中を闇に浸して
ヤモリ鳴き風の和らぐ未明なり巨象踏み荒らしし世界見ゆ

強烈な悪天候のなかで、それぞれの場面が生き生きと描かれていて楽しい。
歌集を読んでいると、はじめはジャーナリストとしての批評的なまなざしが強く感じられ。しかし徐々にこの地域にとけこみ、自然と一体化しながら、深い内省へと移っていった。その過程で見つめなおした自然や人、そしてまた自身へのまなざしがやわらかい。

ハイビスカスくくと笑いぬ東京と米国ばかり見ているメディア
ああわたし大地とつながる手をつなぎ踊りの輪へと入りゆくときに

自然の大きさと価値。そういうことを忘れてしまっている人々。自分もまたそうだったかもしれないと感じているのだろう。他所から来たからこそ敏感に感じ取れるのかもしれない。二首目には作者にとっての転換点がイメージされた。

わたくしを調律すべき夕まぐれ繰り返し弾く平均律曲

自分自身の内面へ内省からはじめ、新たな精神世界の水辺へ降り立った。内面を深く沈んでいくような気配の一首。

月のない夜の浜辺へ下りてゆくたましい濡らす水を汲むため
春の海のどこまでが春 日の光届かぬ場所に卵冷えおり

卵は作者の内なる世界に産み出されるものの象徴なのだろう。

耳ふたひら海へ流しにゆく月夜 鯨のうたを聞かせんとして

鯨の歌をだれに?…心のうちに棲んでいる自分の分身に。それは、幼い頃の純粋な自分自身かもしれない。表題作である。 

無量大数のいのち抱えて盛り上がる暗き思念の広がり海は
それは小さな祈りにも似てほの暗き森に灯れる発光キノコ
詩もパンも祈りと気づく深き闇あなたへ光とどけるための

あらためて見た自然のすがたからの気づきがあり、それは徐々に確信となっていく。自分を受容し、世界を受容する。このことにより一体感が生まれている。

種子深く時間は眠る人間の時計は進み続けて止まる

植物は長い年月を静かに生き続ける。植物の生き様は、同じ生き物でありながら、人間とはまったく異なる相の生き様を持っており、そこに感慨がある。

夜半の雨しずかに心濡らすとき祖母たちの踏むミシン幾万
濁る沸く潤す凍る流れゆく水なりわれは百態を為す
湾というやさしい楕円朝あさにその長径をゆく小舟あり

どの作品にもやわらかいまなざしが感じられる。
次のように幻想的でのびやかな作品にも惹かれた。

鹿となる小暗き森を駈け抜けて清き水辺で落ち合うときに
巡り来る季節をいくつ重ねても飼い馴らされぬもの潜む森
しなやかな獣いきなり抜け出して咆哮せし夜 月も見ていた

わたしも飼い馴らされぬものの存在を感じ続けたいと思う。この歌集は多くのひとに読まれ、強い印象を残すことだろう。

歌評(月2回更新)

ページのトップへ戻る