2015年6月15日(長谷川と茂古)

梅雨入りの少し前、家の近くにある水田が青々としている間にある麦畑が、とても狭い区画だけれど、こんがりと焼いた肌の色をして実りの時期を迎えていた。以前は、夏になると「小麦色の肌」というフレーズをよく聴いたものだが、そういえばこの頃はあまり聞かなくなった。美白宣伝の効果であろうか。
 さて、結社誌は六月号から。

国会の売店の清酒〈衆議院〉いかなる味やと一本を買ふ    赤尾 洋子
血液の流るるごとき首都高の隙き間を縫ひて隅田川見ゆ      同

東京観光にみえたのだろうか。国会の売店でお酒が買えるとは知らなかった。もう味見はされたと思うが、辛口なのか、甘口なのかちょっと知りたい。二首目、首都高の隙間から川がみえる、というのも東京ならでは。

対岸の桜ほのかにかすみゆきゆったりと人は花影を行く    小林 聰子
ひとひらの桜花びら風に散る祭り間近のひるかわの里       同

対岸にある桜の風景という静のなかに、ゆったりと動く人を捉えた。「ゆったりと」がいい。蛭川に住む作者の目線は、自分の住む場所をいとおしむ気持ちにあふれているようだ。桜の花が散り始めるころは、さびしさを詠うことが多いが、そろそろ祭が近いという。蛭川高原、夏には行ったことがあるが、春もまた行ってみたい。

絶望に近い希望といふべけれ都市に溺れてしまへば白鯨     菊池 裕
ほんたうのことは知らないはうがいい知らないうちに改憲だもの  同

さまざまな状況において、正しいことが通用するとは限らない。それが繰り返されるうち絶望し、やり過ごす。そんなものだ、と思えば気分的にも楽になる。都市に暮らし、周囲に合わせ、逆らわない。うまく流れていればいいが、流れにのれず逆らって溺れてしまうと『白鯨』のような前時代的な異物になる、といった感じだろうか。メルヴィルの『白鯨』は19世紀の小説、モビィ・ディック。映画「ジョーズ」をみたときは、『白鯨』のサメバージョンか、と思った。若い方には「ジョーズ」もアトラクションでしか知らない人のほうが多いかもしれない。二首目、「人間だもの」のもじり。本当の事は、知らされない。衆院憲法審査会で、自民党の参考人だった憲法学者が、「憲法違反」と述べた。自民が呼んだのに、変な展開になった。学者だもの。菊池さんは、時評を担当されていて、その文章は歯に衣きせぬ物言いで快刀乱麻を断つごとく、である。今月は「ストックについて」と題し、角川「短歌」四月号の特集,<次代を担う20代歌人の歌>と、「歌壇」六月号掲載の服部真里子氏<「わかる」とは何か、「読む」とは何か>をからめて、考察されている。ご興味のある方は、是非読んでいただきたい。
総合誌は「短歌研究」六月号から。

ワンピース一枚売って三月の身体を白いサドルに乗せる   服部真里子
花をくわえてあなたの方へ駆けてゆく一角獣のうしろあし見ゆ   同
ビスケット無限に増えてゆくような桜並木の下の口づけ     同

連作「花をくわえて」二十首のうちの三首。連作を一読した印象は、まず「可愛い」であった。歌集『行け広野へと』におけるさまざまな手法は影を潜め、分かりやすさ、若々しい女性らしさを前面に出した感じがある。「白いサドル」は自転車だろう。ワンピースを売ることによって、何を得たか。もちろん現実的なことではなく、風をきって軽やかに走るような、春の感覚なのだろう。ワンピースというお淑やかな装いではなく、活動的になりますよ、という挨拶歌。二首目、題にしているが、花をくわえるのはタカラヅカの人くらいじゃないか、といわれるのも覚悟の上のこと。しかも続いて「一角獣」ときた。メルヘンの世界へ一直線な表現だ。三首目の初句は、歌の「ふしぎなポケット」が下地となっている。ポケットをたたくとビスケットがふえる、というよく知られた歌である。結句も、一番避けるであろうロマンチックな景色で、幸せいっぱいである。めでたし、めでたし。・・と読めばいいのかな。

歌評(月2回更新)

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