2017年12月1日(神谷由希)
十二月も「歳晩」というべき年末が近づいて、何かと気忙しい日々となった。年末でなくても私達の生活のスピードが増したこの頃では、月日の流れも一段と早くなったような気がする。穏やかな一年とは言えず、事の多かった年と顧みて思う。事件があると、餓狼のように群がって取材と称する傍若無人な行動に出るマスコミに、苦々しい思いをしながらも、一方に事あれかしと待ち構えている気持のあるのも否めない。〝知らせたい、知りたい〟の加速するメディアの中、恐ろしい何かがひっそりと、しかし確実に進行しつつある気がしてならないのは、杞憂に過ぎないのだろうか。ともあれ今は、静かな心で歌に向き合うことにしようと思う。結社誌十一月号より
KOBANのポスター貼られて町外れ店舗のごとく交番があり 大橋美知子
その通りといいたくなる一首だが、〝KOBAN〟と交番の対比、また〝店舗〟のごとくが何でもないようで面白い感じ、または意外性を改めて認識させる。建物の造り、色合いなど一昔前の交番と較べて、時に〝CAFE〟か美容院と思ってしまうデザインがある。〝開かれた警察〟の所以だが、横文字の標識然り、作者の着目が日常をなにげなく切り取って見せる。
句碑あまたあれどことばを彫らぬ樹のさやらさやらと胸処を揺らす 古谷智子
ふるさとは帰るにあらずふたたびを住まず馴染まず捨てず思はず 同
十首詠の中から二首。一首目の〝さやらさやら〟が不思議な感覚で、言葉を彫らぬ樹の存在感と作者の胸に響くものとに呼応している。金沢に犀星、悟堂の足跡を尋ねた時の歌として、二首目は犀星の〝ふるさとは遠きにありて思ふもの〟の詩に由来しているのであろう。文人を志し若くして故郷を捨てた犀星だが、極貧の生活の中、自らが育った家庭の実状、また犀川のほとりの美しい風物などについて、心が様々に揺れたかと思われる。その洞察が下句の〝捨てず思はず〟に現れている気がする。
たちまちに脹らむ腕、手、耳朶も蜂の毒気の健やかなこと 山下聖水
恐いものもう何もない八十二 足長蜂にさされて候 同
作者は炎天下の草引きの最中、突然蜂に刺された。〝何も悪いことはしてないのに…〟と思いつつ、蜂も守るべきものがあろうと少々気の毒がったりしている。患部はたちまち脹れてくるが、その様を蜂の毒気が健やかであると感じる。一図に蜂を憎むのでなく、毒の持つ活力を詠んでいるところ、目が眩むと言いながら余裕のようなものさえある。二首目、やはり恐いのは足長蜂だったという作者の述懐めいた内容だが、この頃は〝老人力〟というのか、佐藤愛子の『九十歳何がめでたい』に始まり、様々な高齢者の手記のような本が書店に並んでいる。少し前は皆若さを披歴していたのに、今はどう老いたか、どう老いるかの手引書ばかりのようだ。
ながつきはすんと来たりてこの夏の気儘な空は心揺るがす 大久保久子
秋を迎える歌はいろいろあったが、この歌の〝すんとして〟には何となく納得させられてしまう。全くこの夏の天候はきまぐれであった。豪雨が地域的に襲うやら風が荒れるやら、雹まで降った。そこへ〝すんとして〟来る秋、この間までの騒ぎはなんだったのかと、作者ならずとも思わずにいられない。
一族の幾人の貌を想起させ老いたるやうな沐浴の児は 大沢優子
嬰児とは不思議な生きものである。まだ目鼻立ちもまとまらない顔のなかに、一族の人たちの俤が、様々に揺曳するのである。沐浴させているのはその児の若い母ではなく、一族の人たちの顔貌を知っている人に違いない。〝老いたるやうな〟はその人の感慨を驚くほど、端的に表現している。
続いて二〇一七年十二月、六花書林刊行の本多真弓歌集『猫は踏まずに』より。
刊行にあたって、花山多佳子氏、穂村弘氏、染野太朗氏が栞として短評を載せている。また解説は岡井隆氏で、歌集のタイトルに見る軽やかさとは違う豊かな内容である。以下抄出。
①わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに
②さきくさの中途入社の同期たちはひとりもゐなくなつてしまつた
③菅の根の長き時間を働けば同期が急に老けて見える日
④あからひく朝のうなじに触れるとき青年は島われに漂ふ
⑤ししくしろ黄泉で待つとや待たぬとやくづれはじめるまへにあひたい
⑥ぬばたまのひかりもひさかたの闇もすべてはまこと 此岸のことと
表題となった①の他は、作中に枕詞が使われている歌を選んでみた。自分の好みで並べたので、順不同である。淡彩、あるいは軽妙というような職場詠のうち、「猫を踏まずに出社」とは何だろうか。職場という人間関係の坩堝の中へ出て行くには、何かを踏まずにはいられない、というアイロニーなのか。〝猫〟とは言葉の綾に過ぎないかもしれないが、実生活上では真に不可思議な生きものである。その自分勝手な纏わり方には、ふと人が生きている故のもろもろを想起させるものがある。作品のすべてに猫のイメージがそこはかとなく漂う気がするのは、猫好きゆえの誤読だろうか。現代的な詠み方にあるいは内容に、枕詞(もう疾うに忘れてしまったような)が、巧妙にちりばめられている。しかも「旧仮名遣い」であることが、〝旧いものは却って新しい〟感覚を醸し出していると思われるのである。結びに、
今生は常にくるしいものがたりさはされどゆく空を見上げて