2017年9月1日(吉田 光子)

大切な人が亡くなるというのは、とても辛いできごとである。イラストレーターの益田ミリさんが、以前、父の死に対する心情をつづったエッセーを新聞に寄せていた。益田さんは知人にお悔やみを言われた時、「もう大丈夫なんですよ」と笑ってみせたという。でも、あとでそのことを悔やむ。「大丈夫じゃないときに大丈夫と言っって、自分の言葉に苦しめられた」のだ。そして、「父がいない世界を、わたしは、わたしの時間配分で受け入れていきたかった」とも記している。

ほんとうにその通りだなあと思う。私も、40年近く前に母を亡くした時、悲しくてただ悲しくてならなかった。ひどい落ち込みようだったのだろう。友人が心配して、心が晴れる場所へと私を連れ出そうとしてくれた。そんな心遣いに感謝しなくてはいけないと思いつつ、その時の私は、静かに悲しませてほしいと願っていた。気持を明るさのなかに置いて紛らわせることで悲しみを乗り越えていける人もいるだろう。でも、私はちょっと違っていたようだ。ひたすら悲しむことしかできないのだった。そしてまた、悲しさの底にじっと沈んでいても、やがていつかそこからゆっくり浮上してゆくであろう自分を、心のどこかで信じていた。「お母さんのことを、たくさん思い出してくださいね。」と、友人に言ってもらったとき、私は小さく息ができたような気がした。
かけがえのない人との別れには、さまざまな向き合い方があると、しみじみと思う。

では、結社誌「短歌」8月号から。

船出せんと鞆の浦にて潮を待つ万葉人の影の茫々      石橋 由岐子
覚醒を促すごとく鞆の浦の闇をよぎりて稲妻はしる       同

悠久の空気を孕んだ1首目は、読者を遥かな古代に誘ってくれる。景勝地として名高い広島県の鞆の浦は、ジプリアニメの『崖の上のポニョ』の舞台として知られているが、古くは瀬戸内海の交通の要所として栄えた港町である。遣隋使や遣唐使あるいは大和と西国を行き来する旅人の船は、鞆の浦を潮待ちの港として停泊した。万葉歌人として名高い大伴旅人は大宰府からの帰路、〈吾妹子が見し鞆の浦むろの木は常世にあれど見し人ぞなき〉という歌を残している。大伴旅人は赴任するとき妻の大伴郎女を伴っていたが、妻は大宰府で亡くなったため、その悲しみを詠んだのである。身のめぐりにそんないにしえの人々の気配を感じ取った作者の感性が、静かな輝きを放つ。そして、「万葉人」の一語から漂う抒情は、豊かな歌世界を私たちに差し出してしてくれている。2首目からは、作者の強い思いが伝わってくる。短歌を詠むことに対する覚醒とも、自身の存在意義への覚醒とも、あるいはその両方とも受け取れるが、きっぱりと歌いきって読者の心に響く歌となった。

茶碗から小皿や菓子も懐紙さへしやれこうべらに彩られをり   米川徇矢
七人が車座となり輪読す幸田露伴の『對髑髏』はも        同
メメントモリ骨の細みの浮く父と目でものを言ふ母が並べば    同

京都・山科の春秋山荘での「髑髏茶会」なるものでは、茶会で用いるさまざまな茶道具に髑髏が配されているらしい。そこに参加する人は皆、髑髏模様のシャツとか着物を着ているのかしらん、はたまた、髑髏の刺繍をしたハンカチを胸に忍ばせているのかもなどと、余計なことをつい空想してしまう。趣向が凝らされ、知のかおり高い茶会であったことが一首目、二首目からうかがえよう。最後の歌の初句「メメントモリ」とは、ラテン語で「死を想え」の意と聞く。「クォ・ヴァディス(何処へ行き給う)」と対になって記憶されることが多いと思うが、なかなか歌にするのは難しい言葉ではなかろうか。けれども、作者は効果的に取り込むことに成功している。その結果、ある種の諦念と哀しみが互いに作用しあい、澄んだ世界を作っているように思った。少し明るく捻ったユーモアを塗しながら。

石壁の落書き永遠に囁けり〈私はあなたの指輪になりたい〉   安部淑子
人々の最後の晩餐見届けし壁画の不死鳥今も眼開く        同
不死鳥のレプリカ一枚贖いぬ明日ミサイルか地震か知らねど    同 

イタリアのナポリ近郊のヴェスヴィオ火山が突然噴火して、火山灰に埋もれた町ポンペイ。発掘により眠りから覚めた町は、道路が整備され、住居や劇場や公衆浴場、下水道まで完備されていたという。壁画やモザイク画、市民が記した落書きなどが当時のまま残され、豊かでおおらかな生活ぶりが明らかとなった。そんな往時のポンペイを伝える展覧会での作者の感動が、ひたひたと手渡される一連である。歌はどれも切り取り方が鮮やかで、生き生きとした息遣いに満ちている。だが、最後の一首で、私たちは歌の背後の暗い空間に、いつの間にか放り出されていることに気付くのだ。われわれが明日のポンペイ市民でないと、誰が言い切れるだろう。私たちの日常はいかに危うく脆い側面を孕んでいることだろうか。

続いて、山﨑暁子歌集『余白』を紹介したい。

あとがきによると、作者は、女学校に教師として赴任された宮英子さんに国語を学び、その縁から「コスモス」に入会。更に、岡野弘彦さんの「人」に参加され、歌を詠んでこられたという。ご本人によると「歌ごころあわく作歌が続かなかった」が、「岡野先生のお歌を読むことが心のささえであった」そうだ。現在は書家としてご高名である。歌集をまとめるにあたり、書のお弟子さんの全面的なバックアップがあったとのこと。また、出版のきっかけとなったのは結社「人」での友人の思いがけぬ来訪であったという。絆の温かさ、不思議さを感じずにはいられない。

昏きままものの姿はさだかにて山茶花と石蕗の花あかりする
からだたゆく行きし旅ゆゑ帰り来て梅の白さがただ残るのみ
幸はさびしきものか人とゐて水仙の原に海をみさくる
春秋を眼窩のおくにひめもちて埴輪立つなり傷の足もて
音たつる炎にやけし白き骨を父とうべなふには足らぬ日月
葉ごもりに花をつけたる木のもとに小さく神をいつく村あり

眼差しがこまやかで品格のある歌が並んだ歌集である。  

歌評(月2回更新)

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