2020年9月15日(雲嶋聆)
結社誌9月号から。
葉がくれに咲くゆりのきのうすみどり自己主張せぬものはうつくし 洲渕智子
損をしないために主張する、ということが、とかく奨励されているが、正直そればかりだと息が詰まってくる。主張と主張がぶつかり合い、よりよく生きるための手段であったはずの主張がやがて目的となっていき、争うこと自体に快を見出す人が出てきてしまう。淡い空気をまとったこの一首は、下句で「自己主張せぬものはうつくし」と言い切る。上句で「自己主張せぬもの」の具体として出されている「ゆりのきのうすみどり」が下句の断定に説得力を付与している。上句の「r」と「i」の音の配置も、一首全体に心地よい韻律を生み出す効果を上げている。また、穿った読みかもしれないが、初句の「葉がくれ」から、武士道といおうか、現代的な自己主張の流れとは異なる武士の倫理みたいなものが連想され、全体の統制がすこぶるとれた一種であるように思った。
梅雨晴れの陽ざし玉ゆら蓮の葉に朝露ゆれて揚羽も揺れる 柴田今日子
梅雨晴れの朝、光に煌めく露と揚羽蝶、情景がとても美しいと思った。印象派の画家たちは光を求めて外界へ、自然の中へ乗り出していったというが、ここに詠まれている世界もそんな絵画的な印象を与える。朝露も揚羽も、光の具現というか、光は確かな輪郭をもって見れないものだから、このような具体物に託すことで作者は朝の光の様子を詠みたかったのではないかという気がする。「揺れる」という動詞のもつどこか定まらない感じも波でもあり粒子でもある光の性質に通ずるものがあるといえる。
これからはウイズコロナらしそういえば花のようにも見えるウイルス 坂神誠
いっこうにコロナは収まる気配を見せず、ワクチンも作られたりはしているが、まだ一般に広まる様子もなく、といった時世の中で、作者は「これからはウイズコロナ」とコロナとの共存を詠う。三句目の「そういえば」が洒脱な味を出していて、むしろ一首全体に明るい感じを持たせている。二句目の結びの「らし」も、口語脈の中の文語で、どこかトリックスターのような語といえ、この軽い感じが、三句目への接続を滑らかにしている。下句の「花のようにも見えるウイルス」という把握も、面白いと思った。
お互いに大丈夫かと声かけて散歩道行く初老の夫婦 秋元志保
熟年離婚という言葉をいつからかよく耳にするようになったが、こんなふうに互いをいたわりあうことができれば、そういうことにならないのかもしれない。また、若くても、特に遠距離恋愛とかだと、コロナ破局にならないため、こんなふうにいたわりの言葉をまめに掛け合うことが必要なのかもしれない。恋人でも友人でも夫婦でも、主張するためにばかり言葉を用いるのではなく、赦しあい、いたわりあうためにこそ言葉を用いることが大事なのだろう、そんなことを考えさせられる情景であり、歌だと思った。
硝子戸に戯るるごとき紋白蝶友と思うか己の影を 那須勝美
硝子戸に体当たりを繰り返す紋白蝶のことを、「戯るる」と捉える見方が新鮮だと思った。硝子戸に映った「己の影」に反応しているのだというのが面白いと思った。そういえば、イソップ童話の「欲張りな犬」という話があるが、それも水面に映った自分の影に反応する話だった。紋白蝶ではなく犬ではあるが。たしか、この欲張りな犬はあいつの咥えている肉の方が大きく見えるといって、思わず吠えて水面の自分の影を威嚇したところ、自分の咥えていた肉を水のなかに落としてしまった、そんな話だったと思うが、この紋白蝶は何を思いながら硝子戸に映った自分の影に体当たりしているのだろうか。
別に深い理由はないが、斎藤茂吉の『赤光』の「死にたまふ母」を読んだ。母親の死を詠んだ連作として有名な作品だ。何かで、『赤光』の中心となるべき連作だという話を読んだような気がする。気がするだけなので、記憶違いかもしれないけれども。
以下、個人的にいいなと思ったり気になった歌一首一首について、感想を書いてみたい。
なお、歌集は、初版本を文庫化した新潮文庫のものを参照した。
みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞ急ぐなりけれ
已然形で歌を締めているのは何故だろう、係り結びでいえば、「ぞ」があるから連体形「ける」で結ぶべきなのではないか、あるいは已然形で結びたいのであれば、「ぞ」ではなく「こそ」とすべきなのではないか、一読、そこに引っ掛かってしまった。たまたま手元にあった『現代短歌の文法』(米口實)という本で調べてみると、係り結びの法則は近世以降、だいぶ自由な組み合わせになっていったとのことで、「ぞ」+已然形のような組み合わせも用例が存在するらしい。また已然形は詠嘆の気持ちで使用されることが多いという記載もあったため、その記載を信じるならば、この歌では「一目見ん」の繰り返しによる強調と、「急ぐなりけれ」の已然形によって、とるものもとりあえず故郷の母のもとへ急ぐ作者の姿が浮き彫りになっているということになる。
たまゆらに眠りしかなや走りたる汽車ぬちにして眠りしかなや
二句目と結句で同じ言葉をリフレインして強調するのは、万葉集でもたびたび見られる構造であり、茂吉の万葉集への傾倒ぶりが伺える。「走りたる汽車」の中で眠ったことを強調しながら、初句で「たまゆらに」と言っているから、実はほとんど眠っていないということになり、この強調がいくぶん反語的に働いて、むしろ寝不足であることを強調しているようにとれる。寝不足による夢うつつと、汽車の揺れ、さらには母がもうすぐ亡くなるという現実感の無さを「たまゆら」や「かなや」の音が巧みに表現している。
ひとり来て蚕の部屋に立ちたれば我が寂しさは極まりにけり
ストレートなものいいだが、「i」の音の多用が、歯を食いしばって寂しさや悲しみに耐える作者の姿を表しているような印象を与える一首だと思った。このような寂しさは、故人のよくいた場所や、好きだった物、嫌いだった物をきっかけに、ふっと込み上げてくるものだが、まして亡くなった当日では、そのような些細なきっかけで感情が込み上げると瞬く間に頂点に達してしまう。その辺りの感覚を、結句の「極まりにけり」は言い得て妙といおうか、そんな感じがする。
灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり
火葬の後、灰の中からかつて母だったものの破片を拾う作業は、とても不思議なものだけど、その違和感というか、不思議の感覚、感慨みたいなものを「母をひろへり」のリフレインが表していると思った。
うらうらと天に雲雀は啼きのぼり雪斑なる山に雲ゐず
雲は死者とか死の比喩と表現されてきた歴史があり、それを踏まえると、一見ふつうの叙景歌に思えながら、その実、作者のどうしようもない孤独感を表現しているといえる。また、大伴家持の雲雀の歌(うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば)に寄せていると思われ、その点でも作者の悲しみを余蘊なく表しているといえる。
こうして抜き出してみると、後半よりも前半に惹かれる歌が多かったが、また時間をおいて読み返すと、変わってくるのだろうとも思うし、そのように年齢や読む時期によって見方が変わってくる作品が名作の条件なのだろうとも思う。