2020年11月1日(吉村実紀恵)
先日、Go Toキャンペーンを利用して浜松へ小旅行した。まず向かった先は奥浜名湖にある古刹、龍潭寺。井伊家四十代を祀る菩提寺で、井伊直虎ゆかりの地である。大河ドラマ効果もあってか、若い人たちの姿も多く見られた。本堂の北にある池泉鑑賞式庭園は、東海一の名園と呼ばれるにふさわしく見応えがあった。ひと目見て二条城の二の丸庭園を思い出したが、作庭は同じ小堀遠州だった。
この龍潭寺の北側にあるのが、浜松市内唯一の官幣社、井伊谷宮である。祭神は後醍醐天皇の第四皇子と言われる宗良親王。母、為子の二条家は和歌の名門で、宗良親王は幼いころから和歌に親しんでいた。母亡きあとは比叡山で仏門に入るが、後醍醐天皇が吉野に逃れると、南北朝動乱の中で還俗して、ふたたび鎧をまとう。後醍醐天皇崩御ののちは信濃の国大河原に征東府をおき、勢力の衰えた南朝を率いて三十数年ものあいだ各地を転戦した。将軍歌人といえば真っ先に思い浮かべるのが源実朝であるが、両者の歌との歩みはずいぶん異なるようだ。
君が代を絶えせず照らせ五十鈴川我は水屑と沈み果つとも
思ひきや手をふれざりし梓弓起き伏しわが身馴れむものとは
我を世にありやと問はば信濃なるいなとこたへよ嶺の松風
本来は戦いを好まない温厚な性格で、学問と仏の道をひたすら歩みたかったことであろう。だが宗良親王には、正しい国体を護るという使命感があった。父なき今、自分がやらねば誰がやるのかという強い自負心。皇族でありながら野宿、飢え、死と隣り合わせに生きる長い旅の中で、親王にとって歌はかけがえのない伴侶であった。歌を詠むことは深い癒しであり、平和への希求であり、さらには命を明日へとつなぐ希望であったことであろう。
古今和歌集をひたすら書き写したという宗良親王の歌は、様式美に貫かれている。だが運命に翻弄され、生きたい自分を生きられなかった親王の歌を読むとき、言葉のあいだから他ならぬ「われ」の声が、哀切に響いてくるのを聞き逃すことはできない。むしろ近代短歌以上に、形式によって高度に純化された「われ」の結晶を見る思いがするのだ。
都には風のつてにもまれなりし砧の音を枕にぞ聞く
一三七四年、実に三十六年ぶりに吉野に戻った宗良親王は再び出家し、自身の歌集『李花集』をまとめる。さらには、南朝の準勅撰集『新葉和歌集』を編み、吉野の人々の歌を後世に残したいというかねてからの思いを実現させる。上記の歌は越中名古浦にて詠まれた歌で、その『新葉和歌集』に収められている。しんと澄んだ夜気、里人の衣をうつ音。ひとり聞き入る親王の心中を思う。秋の夜長に口ずさみたくなる一首である。
続いて結社誌10月号より。
はたと手を打ちて翁の引き返す横断歩道の中央あたり 中村 孝子
世の明けと思えぬ闇さ冥界の入り口さまよう魂もあるべし
青虫のかおは「のぞみ」にそっくりで流線型の模様褒むべし
つくづくと見てはおかしむ手の甲の天山山脈あきらかにして
鶏の熱き体温おもい出づ抱けば瞼を下より閉じて
とても面白い一連で、五首引いた。一首目、見たままを詠んだ歌なのだろうが、「翁」という表記、さらには二首目から想起されるイメージと相まって、この横断歩道がどこか異世界との通路のようにも思えてくる。この翁、本当は遠い歴史のかなたの山村で、小川に架かる橋を渡っていた途中だったかも。それが時空のねじれによって突如、作者の目の前で横断歩道を渡る姿として出現した。手を打って引き返していった先がどこなのか、ファンタスティックな想像を逞しくしたくなる。
人間と違い、鶏などの鳥類の多くはまぶたを下から閉じる。青虫の形状にしても、それぞれ生態学的な理由があるはずだが、作者の「発見」はそこに注目したものではない。ただ「のぞみ」にそっくりな青虫の憎めない顔つきを面白がり、人間の腕の中で安心しきったような鶏の様子をしみじみと思い出す。どちらも皮膚感覚に訴えてくるようなぬくもりがある。四首目、片手でグーを作って手の甲をまじまじと眺め、なるほどそこに天山山脈が出現しているのを見る。どの歌も、少女のように無垢な目で捉えられた世界の断片が、何の虚飾もなく差し出されている。読者も童心に帰り、その世界にひたすら遊べばよいのであろう。