2017年7月15日(大沢優子)

暑い日が続いている。猛暑が夏の常態になってしまったような気がする。
日盛りに歩く人を地方都市ではほとんど見かけない。人々は、夏に耐えつつひきこもっているのだろうか?多くの人が故郷に集まるお盆の行事は、7月に行うところと、8月に行うところに分かれている。関東地方では東京、横浜など大都市は7月だが、8月という地域も沢山ある。亡きひとへの慰霊の表し方にも少しずつ変化が訪れているようだ。

7月号結社誌の月集には偶然かお墓の歌が並んでいる。

墓のない我が家は臍がないような気がするという夫の憂鬱    大澤澄子
陽のあたる見晴らしのいいこの墓所と決めて夫の破顔見上げる    同
お墓など衝動買いするものなのか、申し込みした後考える      同

婚家また実家いずれも墓守りの役目をこなして墓前にかよう   長谷川径子

いずれも現代的な歌だ。墓苑の環境が気に入って、衝動買いしたという大澤作品。墓所をもたないことに、不安定な気持ちを抱いているのはあくまでも夫であり、作者はそのような夫の気持ちを受け止めて、衝動的にお墓を買う決断をする。旧来の家のお墓と異なり、個人の永眠の場として自由な選択をする精神に、家族の新しいあり方が見える。
とはいえ、いったんお墓を持てば、それをどのように守り継いでゆくかという問題も生ずる。一人息子と一人娘が結婚するケースが珍しくはない現在。長谷川作品は、自身が両家の墓守をしているということなのだろう。「婚家また実家いずれも墓守り」は、やや不安定な表現であるが、「婚家と実家双方の墓守り」の意と読める。「役目をこなす」という言い方に、どこかさばさばした心情が覗く。

九十四の母に仏間は遠すぎて今は食卓に供膳祀る        池田あつ子
この場所が桃源郷かもしれないとふと思はれて 花盛りの村     同

旧家なのであろう。「供膳」は、「きょうぜん」と読むのだろう。高齢となられてもお母様は、仏事を大切に守っている。代々当家に受け継がれてきた慣わしの通りに。そういう生家のある故里を作者は「桃源郷」かもしれない、と思い見る。俗世間とは異なる時間が流れているような故里を、懐かしく、慕わしく思いながら、滅びゆくものとの思いが心底にあると思われる。

戦争の記憶はなきに記録写真みれば知らざる記憶が生るる   古谷智子
体験していないことも、知ることによって自身の記憶に場を得る、という発想は新鮮だ。「歴史を語り継ぐ」という言葉が安易に使われるが、受け止める側に知識、想像力の沃野があってこそ、記憶を新しく生むことができるのだろう。

詩歌に「薔薇」は夥しく登場しているが、それでも人気の花だ。

薔薇蘭けて団地の中に吸はれゆく若き母らの陽炎ひて見ゆ     神谷由希

花型のすこしゆるびはじめて団地に咲いている薔薇は、そこに集う若き母たちののどかな時間を、彩っている。そういう時間を自身の記憶の遠景として、陽炎のように眺めているのだろう。

薔薇の初夏百合の仲夏を楽しまむBL,GL大人買ひして    堀田季何
英国式女僕の服をもて囃すかかる人種の代表われは        同

「初夏の薔薇」ではなく、「薔薇の初夏」と倒置された薔薇は、途端にギリシャ神話から『薔薇族』まで諸々の蠱惑的イメージを引き出してくる。が、最後の「大人買ひ」が、コミックへと上手く導き、趣味的な世界のコテコテ感が薄れ、後味の良い作品である。
「英国式女僕」は当然メイドのこと。「女僕」は中国語であり、ずいぶん持って回った言い回しをしている。「かかる人種」が、つまりは、特定の人種を代表しない。作者の韜晦的な仕掛けを楽しんでしまう。

染野太朗第二歌集『人魚』を読んだ。
背景のよくわかる歌と抽象的な歌が混じり合い、現実と幻想の世界が立ち上ってくる。

尾鰭つかみ浴槽の縁に叩きつけ人魚を放つ仰向けに浮く
尾鰭つかみ人魚を掲ぐ 死ののちも眼は濡れながらぼくを映さず
ゴミ袋にブラジャー透けて杉並区天沼一丁目の夕まぐれ

歌集タイトル、人魚が詠われているⅢ章は、「三度、二枚、四階、診断、人魚、体重、予定、無数、数秒、充足」と二文字の無機的な表情の熟語が小題として並んでいる。それらの語群のなかで「人魚」は、喚起するイメージの多さで不思議な小題だが、それゆえに人魚を詠んだ歌がもたらす暴力的なインパクトは強い。想像上の存在が浴槽から、あるいはゴミ袋の薄い皮膜を破り、被虐と嗜虐の存在として身を伸ばしてくるような気がする。半人半獣の存在は、苛まれても人間的反応はない、と作者は自らに思わせる。暴力によってしか、他者との繋がりを表しえないのだろうか?

この歌集に嫌悪感を示す人の意見もずいぶん聞いた。日常の価値観を侵食してくる、嫌な感じがあるからだろう。日常をざわめかすもの、それは当然、作者の意図である。

よろこびを拒みていたり生徒らは非常に巧くマフラー巻いて
叱れども泣けども生徒の眼球の広がる白をわが止められず
盂蘭盆は父の酒量のいや増して焼酎に氷鳴りやまぬなり 
すでに老いて父の広げる間取り図のセキスイハイムの「キス」のみが見ゆ
祖母はもう死んだが盆の茨城で母は苦しみぼくがそれを見る
眠れぬと呟く人を怒鳴りつけオートロックの向こうへ帰す
千円で売れた食卓 冬の午後を二脚の椅子とともに出て行く
川で子ども海で子どもと遊ぶような不安を今日もいじめぬきたり 

高校教師として、生徒との齟齬、父母との情けない葛藤、家庭生活の破たん、いずれもがリアルで、生きてゆく気力を挫くような場面が切り取られる。小説家の中村文則が帯文を書いている。「日常の表皮の中にある諦念、倦怠、欲求、狂気を、日本語という類まれな言語の素晴らしさを大いに生かしながら表現し、かつそれらが日常の殻を破り少し表面に突出する瞬間も、作者は冷静に見つめ言葉をつむぐ。」
現代小説を読むような歌集だった。

歌評(月2回更新)

ページのトップへ戻る