2012年2月1日(近藤寿美子)
先月末から厳しい寒さが続いている。東京都心や九州では積雪があったようだが、そんな中、 わが家ではスノードロップという花が咲いた。神話や伝説が多く残る花で、キリスト教では2月2日の聖燭節の花とされている。まるで小さな雪の化身のようで、愛らしくも儚い。
さて、結社誌『短歌』は今年、創刊90周年を迎える。第90巻1月号から。
洗つても魚グリルにこびりつく心の闇のやうな さう、あれ 長谷川と茂古
一首の視点も表現も巧みで面白い。一字あきを使って、グリルにこびりついたものを読者に想像させ、間髪を入れずに「さう」と、その想像が正しいことを伝える。そして、読者と共に「あれ」を共有するのだ。具体的な描写によって一方的に理解を求めるより、むしろここには読者との相互の通い合いがあって、共感が生まれているようだ。
描きさしの半身の馬遺されて二足のままに身を立てゐたる 大沢優子
北海道の夭折画家・神田日勝の未完性作品として、アトリエに残されていた絶筆の作品を歌にしている。この絵を鑑賞したことのない読者には、半身だけが描かれた馬がどのようにも浮かぶ。絵画が歌となり、歌から読者のイマジネーションの中で、再び空想の絵画が生まれる。
それぞれの未完の馬が、一人一人の想いにそっと寄り添うのだろう。
とらはれてゐるのはわたし透きとほる蜘蛛の巣ごしに見える青空 紀水章生
あるひとつの事柄に、心の自由を失うときがある。先入観や形式にとらわれたり、それぞれが抱える具体的な何かにとらわれることもあるだろう。この歌の「とらはれて」は決して蜘蛛の巣そのものに捕らわれているのではないような気がする。本質が見えにくくなってしまった心や眼差しには(「透きとほる」は少し理解しにくいが)蜘蛛の巣のようなものがかかっているのかもしれない。
『短歌研究』2月号、作品連載、川野里子「遠来」30首より。
わが裡のしづかなる津波てんでんこおかあさんごめん、手を離します 川野里子
「津波てんでんこ」。この言葉は震災以来、よく耳にした。津波がきたら、親も子も捨てて真っ先に逃げよという東北地方の言い伝えのひとつだ。しかし、提出歌は震災の歌ではなく、老いて一人では生活できなくなった母親を、老人ホームへ預けるという岐路に立たされた歌。
作者の裡には、静かな津波が起き、母の手を離すという選択を余儀なくされているのだ。上句の比喩と、下句の母親に語りかけるような直叙がふかく響きあう。
続いて、同、特集「相聞 如月によせて」から。
それでいいとあなたに言ってほしかった ひいらぎの枝をぬって日が差す 佐川愛実
二人の間にどのような背景があったかはわからないが、棘をもつ柊の葉に、痛みや尖りといった若い恋のひりひりとした様子を感じ取ることができる。葉ではなく枝を縫って差す陽射しも、素直にはいかない恋の行方と呼応する。ひらがなの柔らかい表記が、幼さの残る淡い恋であることを伝えているようにも思う。